「私学校」の版間の差分

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'''私学校'''(しがっこう)とは、[[明治]]初期に[[鹿児島県]]に存在した学校の俗称。[[西南戦争]]の直接的原因を作り、また薩軍側の主力を輩出した学校である。現在の国立南九州病院敷地内。周辺に、[[鹿児島城]](鶴丸城)跡、城山、薩摩義士碑、[[鹿児島県歴史資料センター黎明館]]、鹿児島県合同庁舎跡、[[鹿児島市立長田中学校]]などがある。
 
[[1874年]]([[明治7年]])4月、下野した[[西郷隆盛]]は旧鹿児島城(鶴丸城)内に陸軍士官養成のための「幼年学校」「銃隊学校」「砲隊学校」の三校を設立した。幼年学校は[[明治維新]]に功績を挙げたものに与えられた[[賞典禄]]によって設立されたことから、「賞典学校」とも呼ばれる。西郷隆盛が二千石、鹿児島[[県令]][[大山綱良]]が八百石、[[桐野利秋]]が二百石を拠出し、また参議[[大久保利通]]も千八百石を拠出した。残る二校の費用は「私学校」という名前とは裏腹に、県の予算より支出された([[大山綱良]]の項参照)。
 
教務は主に[[漢文]]の素読と軍事教練にあった。設立の真の目的は不平士族の暴発を防ぐ事にあったとされる。そのため入学できるのは[[士族]]、それも元[[郷士#薩摩郷士|城下士]]出身者に限られた。