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'''内田 信也'''(うちだ のぶや、本名のぶなり、[[1880年]][[12月6日]] - [[1971年]][[1月7日]])は[[日本]]の[[実業家]]、[[政治家]]。
 
[[山下亀三郎]]、[[勝田銀次郎]]と並ぶ'''三大船成金'''の一人。船舶事業で財を成した後、政界にも進出し[[宮城県知事]]、[[鉄道大臣]]、[[農商務省 (日本)|農商務]]大臣、[[農林大臣]]等を歴任した。
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[[文芸評論家]]の[[村上一郎]]や、[[大蔵省|大蔵]][[事務次官]]や[[神戸銀行]][[頭取]]を歴任した[[石野信一]]は甥。
 
== 来歴・人物 ==
[[茨城県]]生まれ。[[正則学園高等学校|正則英語学校]]、[[麻布中学校・高等学校|麻布中学校]]を経て、[[1905年]]7月[[東京高等商業学校]](現・[[一橋大学]])卒。
 
[[1905年]][[三井物産]]船舶部(のちの三井船舶、現・[[商船三井]]に入社、傭船係長を経て1914年同社を退社。退職金と兄から借りた分とを併せて2万円を資本に、船会社を創立した。しかしはじめから持船があった訳ではなく、傭船時代の経験を生かして、八馬汽船の船4500トンを、月額4200円でチャーターし、よそへまた貸して手数料を稼いでいた。しかし第一次大戦勃発直後のもっとも船賃が暴落していた時に叩くだけ叩いて値段を決めておいていたので底値であった。そこへ松島洋行という船会社を経営していた[[山本唯三郎]]が、月額8000円で借りにやってきた。これで内田は月額4000円近い巨利を博し、以降手当たり次第に船を借りたり貸したりしてどんどん資産を増やし、2年目になると内田汽船は60割の高配当を出し、内田自身も16隻の船をもち、その資産は1億を越えていた。'''山下汽船'''の[[山下亀三郎]]・'''勝田汽船'''の[[勝田銀次郎]]とともに'''三大船成金'''と呼ばれ、列車の転覆事故にあった際に「おれは神戸の内田だ。金はいくらでも出す、助けてくれ。」と叫んだという話はいかにも成金らしいエピソードとして有名になった(内田本人は実際には『金はいくらでも出す』という部分は言っていないと回想している。『風雪五十年』51頁)。 
 
[[1924年]][[立憲政友会]]の公認で[[第15回衆議院議員総選挙]]に当選して代議士となり、豊富な資金と才覚で政治家としても活躍する。[[岡田啓介]]海軍大臣のもとで[[海軍省|海軍]][[政務次官]]となり岡田と親交を結び、[[犬養毅]]内閣では[[三土忠造]]逓信大臣の[[逓信省|逓信]]政務次官として船舶改善助成施設の成立に活躍、岡田啓介内閣のもとで[[鉄道省|鉄道]][[大臣]]をつとめた。しかし、[[鈴木喜三郎]]総裁の反対を押し切って入閣したため[[高橋是清]]元総裁・[[床次竹二郎]](第2次佐藤改造内閣で[[総理府総務長官]]を歴任した[[床次徳二]]の父)・[[山崎達之輔]]([[山崎平八郎]]元国土庁長官の伯父)とともに政友会から除名された。のちに政友会から除名された議員や彼らに従って離党した議員らとともに[[昭和会]]を結成
 
[[二・二六事件]]の直後には内大臣府秘書官長[[木戸幸一]]に株が下がってしまうからはやく新しい内閣を作ってほしいと頼み、木戸はこの非常時に株とは商人は言うことが違うと驚いたという。この時期岡田の他にも[[近衛文麿]]や[[宇垣一成]]らと深いつながりを持つようになった。[[宮城県]][[知事]]の後、1944年2月19日に[[東條英機]]内閣の[[農商務省 (日本)|農商務]]大臣に就任。その後[[貴族院議員]]
 
昭和会の解散後、内田は昭和会に所属していた他の議員らとともに院内会派の第一議員倶楽部に所属したが、[[1939年]]に政友会が分裂すると旧昭和会所属議員のうち政友会出身者の大半は親軍的な政友会革新同盟(革新派、中島派とも呼ばれる。総裁・[[中島知久平]])に合流したが、内田は同じく政友会から昭和会結成に参加した[[守屋栄夫]]とともに政友会革新同盟には合流せず、第一議員倶楽部に残留した。
東條内閣の閣僚ではあったが、戦中はむしろ近衛文麿グループの一員として[[吉田茂]]ら早期終戦派と会合を行った。早期終戦のため宇垣一成の首相担ぎ出しも試みるが宇垣は近衛に不信感を持っていたため失敗した。
 
[[宮城県]][[知事]]の後、1944年2月19日に[[東條英機]]内閣の[[農商務省 (日本)|農商務]]大臣に就任。その後[[貴族院議員]]。東條内閣の閣僚ではあったが、戦中はむしろ近衛文麿グループの一員として[[吉田茂]]ら早期終戦派と会合を行った。早期終戦のため宇垣一成の首相担ぎ出しも試みるが宇垣は近衛に不信感を持っていたため失敗した。
戦後は[[公職追放]]にあい、追放解除後の[[1952年]]に再び衆議院議員。第五次吉田茂内閣で[[農林大臣]]をつとめ、[[明治海運]]取締役会長等を歴任し海運界に重きをなした。1971年1月7日死去。[[享年]]90。
 
戦後は[[公職追放]]にあい、追放解除後の[[1952年]]に再び衆議院議員。[[5次吉田内閣]]で[[農林大臣]]をつとめ、[[明治海運]]取締役会長等を歴任し海運界に重きをなした。1971年1月7日90歳にて死去。[[享年]]90
 
[[熱海市]]指定有形[[文化財]]の[[起雲閣]]を別邸として建設。
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著書に『風雪五十年』。
 
== 外部リンク ==
{{先代次代|[[鉄道大臣]]|1934 - 1936|[[三土忠造]]|[[前田米蔵]]}}
{{先代次代|[[農商大臣]]|1944|[[山崎達之輔]]|[[島田俊雄]]}}
 
==外部リンク==
*[http://www.meiji-shipping.com 明治海運グループ]
 
{{先代次代|[[鉄道大臣]]|1934 - 1936|[[三土忠造]]|[[前田米蔵]]}}
[[Category:日本の実業家|うちた のふや]]
{{先代次代|[[農商大臣]]|1944|[[山崎達之輔]]|[[島田俊雄]]}}
[[Category:海運王|うちた のふや]]
[[Category{{DEFAULTSORT:日本の閣僚経験者|うちた のふや]]}}
[[Category:日本の国会議員|うちた のふや実業家]]
[[Category:海運王|うちた のふや]]
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[[Category:茨城県日本政治家|うちた のふや国会議員]]
[[Category:日本の実業家|うちた国会議員 のふや(1890-1947)]]
[[Category:都道府県知事・市町村長|うちた のふや]]
[[Category:1880年生|うちた 宮城県ふや政治家]]
[[Category:1971年没|うちた 茨城県ふや政治家]]
[[Category:都道府県知事・市町村長|うちた のふや]]
[[Category:1880年生]]
[[Category:1971年没]]
[[Category:三井グループの人物]]