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[[Imageファイル:EnglandEastAnglia.png|frame|[[ノーフォーク]]と[[サフォーク]]がイースト・アングリアの中核である。西に[[ケンブリッジシャー]]、南に[[エセックス]]がある。]]
'''イースト・アングリア'''('''East Anglia''')は[[イングランド]]東部の地方名。[[アングロサクソン]]王国時代のイースト・アングリア王国に因む。瘤のように[[北海]]に突き出した半島部を中心に、[[ノーフォーク]]州と[[サフォーク]]州全域、[[ケンブリッジシャー]]、[[エセックス]]、[[リンカーンシャー]]の一部を含む。
 
'''イースト・アングリア'''('''East Anglia''')は[[イングランド]]東部の地方名。[[アングロサクソン]]王国時代のイースト・アングリア王国に因む。瘤のように[[北海]]に突き出した半島部を中心に、[[ノーフォーク]]州と[[サフォーク]]州全域、[[ケンブリッジシャー]]、[[エセックス]]、[[リンカーンシャー]]の一部を含む。
行政的には[[イースト・オブ・イングランド]]行政圏の一部をなしている。
 
なお、ノーフォーク州の[[ノリッチ]]西郊に[[イースト・アングリア大学]]がある。
 
== 歴史 ==
[[520年]]頃、ノース・フォークとサウス・フォークを併せてイースト・アングアリア王国が成立した。[[アングロ・サクソン]]七王国のひとつである。[[616年]]頃、レッドウォールド王(在位599:599~ - 627年)はライバルの[[ノーサンブリア]]王国を破り、覇権を確立した。しかし、その後は[[マーシア]]王国によって3度打ち破られ衰退、[[794年]]にはマーシア王[[オッファ (マーシア王)|オッファ]]の支配下に入った。[[825年]]から[[827年]]にかけてマーシアの支配に対する大反乱が起こり、イースト・アングリア王国は一時的に復興された。だが、[[870年]][[デーン人]]が[[エドンド殉教]]を打ち破って、イースト・アングリア王国を滅ぼした。
 
イースト・アングリアの名称はデーン人が付けたものである。
 
[[Category{{DEFAULTSORT:イングランドの歴史|いすとあんくりあ]]}}
[[Category:古代ゲルマ|いすとあんくりあグランドの歴史]]
[[Category:七王国時|いすとあんくりあゲルマン]]
[[Category:七王国時代]]
 
[[br:Rouantelezh East Anglia]]