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== 人物 ==
父は鹿本選出の県会議員、のち熊本市長。同郷([[熊本県]][[鹿本町]]来民)の総理大臣[[清浦奎吾]](内務官僚、検事、司法次官、[[司法大臣]]、[[総理大臣]]、戦前の[[刑事訴訟法]]策定)の影響を受け、[[刑事法]]研究の世界に入り、[[小野清一郎]]に師事する。その後、アメリカ合衆国に留学。父は鹿本選出の県会議員、のち熊本市長。

かつて自著で「欧米の裁判所は有罪か無罪かを判断する所であるのに対して日本の裁判所は有罪を認定するだけの所である」という痛烈な司法行政批判を行った事がある。
 
== 学説 ==
平野は、師の小野が後期旧派の立場に立っていたこともありから、[[ドイツ]]の刑法学者[[ヴェルツェル]]の人的不法論を日本に紹介し、[[故意]]を主観的違法要素とする[[行為無価値]]論に賛成したこともあるが<ref>平野龍一「故意について」(法学協会雑誌67巻3号34頁、1949年)</ref>、後に改説して小野の学説を承継した[[団藤重光]]を徹底的に批判した。
 
平野の[[刑法学]]説の特徴は、刑法だけを考察の対象とし、そもそも犯罪の本質とは?という哲学的で抽象的な観念論から出発し、形式的な法違反を重視して、その違反者の道義的責任を問うという後期旧派の道義的応報刑論に対し、刑法のみならず民法その他の法律と同様に、刑法を社会統制の一手段とみて、[[刑事政策]]や他の隣接諸科学の成果を踏まえ、刑法の任務を実質的・機能的に考察するものといえる<ref>上掲『刑法総論Ⅰ』のはしがき</ref>。
 
[[刑法学]]説ような見地から、平野は、[[刑罰]]論において、前期旧派と新派の対立を止揚することを企図して、両派はリベラルで科学的である点で共通性があるとして、刑法を社会統制の手段として実質的・機能的に考察する立場から、後期旧派の道義的応報刑論を批判して、刑罰を科すことを予告することによって犯罪抑止を目的とする'''抑止刑論'''を展開した上で<ref>上掲『刑法総論I』11~12、21~29頁</ref>、[[犯罪]]論において、[[瀧川幸辰]]が展開した前期旧派を基調に、[[違法]]論において、[[結果無価値]]論を採用して刑法の脱倫理化・客観化を推し進め<ref>上掲『刑法総論I』49~51頁</ref>、戦後の自由主義的な風潮の下多くの門弟を育て上げることで支持を広げた
 
そして、平野は、かつての新派旧派の学説の対立は、それぞれの論者が形式的な体系性の追求を求めることによって無意味に争いが激化したもので形骸化しており、具体的に妥当な結論を導き問題を解決するのをかえって阻害していると批判して、これを「体系的思考から問題的思考へ」というスローガンで表し、刑法を実質的・機能的に考察し、その成果を刑事政策などの立法提言につなげることを可能にしたのである<ref>上掲『刑法総論Ⅰ』のはしがき</ref>。
その[[刑法学]]説は、[[刑罰]]論において、前期旧派と新派はリベラルで科学的である点で共通性があるとして、刑法を社会統制の手段として実質的・機能的に考察する立場から、後期旧派の道義的応報刑論を批判して、刑罰を科すことを予告することによって犯罪抑止を目的とする'''抑止刑論'''を展開した上で<ref>上掲『刑法総論I』11~12、21~29頁</ref>、[[犯罪]]論において、[[瀧川幸辰]]が展開した前期旧派を基調に、[[違法]]論において、[[結果無価値]]論を採用して刑法の脱倫理化・客観化を推し進めた<ref>上掲『刑法総論I』49~51頁</ref>。
 
1956年に刑法全面改正作業が師の小野を会長とする刑法改正準備会で始められ、数次の改定を経て、その成果として改正刑法草案が発表されると、平野は、これを戦前の国家主義と応報刑論に基づくもので刑法の任務を国家的道義の維持と解し、積極的責任主義に陥る危険があると厳しく批判したため改正作業は頓挫した。