「エヒタナハ」の版間の差分

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かつて町の中を流れていたシュール川([[:en:Sauer]])は今ルクセンブルク=ドイツ国境となっているが、[[ローマ帝国]]末期と[[メロヴィング朝]]期には、これは全て辺境領ではなかった。エヒタナハのローマ風別荘(遺構が1975年に再発見された)は、[[トリーア]][[司教座]]の一部であり、[[フランク族|フランク]]王[[ダゴベルト3世]]の娘イルミラからウィリボードへと贈られた。メロヴィング朝期のローマ遺産の一部は、[[小ピピン]]から修道院へ贈られた。
 
エヒタナハは、[[カール大帝]]の一族から庇護を受け続けた。859年から971年の間、トリーア司教の世俗的な規律によって追われ、1017年にはウィリボード時代の建物が焼け落ちたが、左右対称の塔を備えた[[ロマネスク様式]]のバシリカは、今もウィリボードの墓のある[[納骨堂]]を中に備えている。修道院として有名な図書館と写字室は繁栄し、エヒタナハの町は修道院の外壁周囲で形作られた。町が都市特権を得たのは1236年であった。1737年、修道院は端正な[[バロック様式]]で再建された。1797年、修道士たちは追放され、修道院の有名な図書館とその所蔵物は競売にかけられた。図書館が所有していた初期の写本の一部は、[[パリ]]の[[ビブリオテーク・ナショナル]]にある。修道院内には磁器工房がつくられていた。町は、鉄道ができ観光客がやってくるまで衰退していた。
 
==史跡==