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==歴史==
[[File:EchternachDancingProcession.jpg|left|thumb|200px|舞踊付きの礼拝行進]]
[[ノーサンブリア王国]]出身の修道士で、のちに初代[[ユトレヒト]][[司教]]となり、[[フリジア人]]のキリスト教化に尽力した、聖ウィリボード([[:en:Willibrord|St. Willibrord]])が[[698年]]に創建したエヒタナハ修道院の壁周辺に、定住地としてエヒタナハは発展した。司教として、ウィリボードは亡くなる739年まで修道院を指揮した。毎年[[ペンテコステ]]の3日目には、彼にちなむ舞踊付きの礼拝行進([[:en:Dancing procession of Echternach|dancing procession]])が行われている。
 
かつて町の中を流れていたシュール川([[:en:Sauer]])は今ルクセンブルク=ドイツ国境となっているが、[[ローマ帝国]]末期と[[メロヴィング朝]]期には、これは全て辺境領ではなかった。エヒタナハのローマ風別荘(遺構が[[1975年]]に再発見された)は、[[トリーア]][[司教座]]の一部であり、[[フランク族|フランク]]王[[ダゴベルト3世]]の娘イルミラからウィリボードへと贈られた。メロヴィング朝期のローマ遺産の一部は、[[小ピピン]]から修道院へ贈られた。
 
エヒタナハは、[[カール大帝]]の一族から庇護を受け続けた。[[859年]]から[[971年]]の間、トリーア司教の世俗的な規律によって追われ、[[1017年]]にはウィリボード時代の建物が焼け落ちたが、左右対称の塔を備えた[[ロマネスク様式]]のバシリカは、今もウィリボードの墓のある[[納骨堂]]を中に備えている。修道院として有名な図書館と写字室は繁栄し、エヒタナハの町は修道院の外壁周囲で形作られた。町が都市特権を得たのは[[1236年]]であった。[[1737年]]、修道院は端正な[[バロック様式]]で再建された。[[1797年]]、修道士たちは追放され、修道院の有名な図書館とその所蔵物は競売にかけられた。図書館が所有していた初期の写本の一部は、[[パリ]]の[[ビブリオテーク・ナショナル]]にある。修道院内には磁器工房がつくられていた。町は、鉄道ができ観光客がやってくるまで衰退していた。
 
==史跡==