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== 人物概要 ==
[[東京大学|東京帝国大学]]卒業後、小田原急行鉄道(現・[[小田急電鉄]])入社。[[東京山手急行電鉄]]、帝都電鉄、小田急電鉄、[[東京急行電鉄]]([[大東急]])での勤務を経て、[[1946年]][[6月]]に東京急行電鉄の[[取締役]]となり、後に[[専務]]、[[副社長]]へ就任する。
[[1948年]][[6月1日]]の大東急解体にも大東急副社長として携わり、現在の小田急電鉄発足に尽力し、同年12月、小田急電鉄初代[[社長]]となる。
 
社長就任後、[[箱根]]の観光開発に注力、[[堤康次郎]]率いる[[西武鉄道]]系の[[伊豆箱根鉄道]]と対立し、[[箱根山戦争]]と呼ばれる競争を繰り広げた。
 
== 生涯 ==
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=== 小田急電鉄社長時代 ===
1948年12月に小田急電鉄社長に就任した安藤は、傘下となった[[箱根登山鉄道]]の[[箱根湯本駅]]への小田急線の直通運転に取り組むと共に、箱根・[[江ノ島]]の観光開発、そして百貨店事業への進出など[[小田急グループ]]の発展に注力した。
 
とりわけ箱根での観光開発は、堤康次郎率いる 駿豆鉄道(現在の伊豆箱根鉄道)との間で箱根山戦争と呼ばれる企業競争を繰り広げた。
 
また、自身が小田原急行鉄道の一労働者から社長になったことから、労使協議会を発足させ、労使協調(安藤いわく「労使協調」ではなく「労使一体」と述べている)に尽力した。
また、社長就任時により[[百貨店]]構想を抱いており[[株式会社]][[小田急百貨店]]を設立するなど、[[小田急グループ]]の発展に尽力する。
 
=== その後 ===
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1984年[[7月]]、[[遺族]]の[[寄付]]のもと、小田急電鉄により[[財団法人]]安藤記念奨学財団が組織された。
 
== 家族 ==
父・安藤黄楊三は大分交通の前身の豊後電気鉄道の創業に携わるほか、豊後銀行頭取や大分県会議員を務めた。
[[1927年]]に東京市電気局長や鬼怒川水力電気役員を務めた井上敬次郎の娘・英子と結婚したが、1年足らずで死別。[[1930年]]に、[[東京渡辺銀行]]頭取の渡辺治右衛門の娘・若子と再婚した。
 
== 参考文献 ==