「高田浩吉」の版間の差分

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[[兵庫県]][[尼崎市]]出身。
 
[[1926年]]に[[松竹]]京都撮影所に入社。[[長谷川一夫]]、[[坂東好太郎]]とともに「松竹下加茂三羽烏」と呼ばれる。[[1935年]]に「大江戸出世小唄」で歌手デビュー。同名の映画の中でこの歌を歌った事から「歌う映画スター」第1号として評判になった。戦後は高田浩吉劇団を旗揚げし地方巡業を行ったが(ちなみに当時の弟子の1人が戦後の歌う映画スター[[鶴田浩二]]である)、[[1951年]]に松竹に復帰。[[伝七捕物帖]]シリーズなどで松竹随一の時代劇スターとして人気を博した。
 
1960年に[[東映]]に移籍。ここでも主演スターとして活躍したが、あまりのハードスケジュールのため作品の質が低下し、人気にも陰りが見えた。さらに時代劇映画が斜陽となり、東映が鶴田浩二らの[[仁侠映画]]中心の会社に変わったことから、1964年より活動の中心をテレビ・舞台に移した。昭和40年代の懐メロブームの際にはなつかしの歌声(東京12チャンネル/現・[[テレビ東京]])などの番組に常連出演。その美声を披露した。
 
「娯楽映画のスターは、常に最も美しく、颯爽としていなければならない。そのためには、コンディションを維持し、私生活でも好き勝手は許されない」という言葉通り、酒も煙草も嗜まず、芝居と歌一筋に生きた。映画時代には「美貌タイム」を唱え、目が充血しないように午後八時以降は一切仕事をしなかったことで知られる。二枚目の容貌を保つため睡眠をたっぷりとることを自らに課していた。しかしTV伝七捕物帖シリーズでは徹夜の仕事を強いられることになってしまった。また、京都をこよなく愛し、亡くなるまで京都で暮らしていた。その為か滅多な事がない限り東京で仕事はしていなかった。
 
その一方で、1980年代には愛娘・[[高田美和]]の離婚・熱愛騒動や、マネージメント会社を通じて[[原野商法]]会社の宣伝用映画出演の依頼を受け、推薦文の製作や原野商法会社主催のディナーショーへの出演などの行為を行った際、依頼をした会社が詐欺行為を行っていることの確認を怠ったとして起訴されたりという事件で話題を呼んだ。
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* [[森蘭丸 (1930年の映画)|森蘭丸]](1930年)
* 大江戸出世小唄(1935年)
* 春琴抄  お琴と佐助(1935年)
* [[残菊物語]] (1939年)
* 大江戸五人男(1951年)
* 伝七捕物帖  刺青女難(1954年)
* 伝七捕物帖  人肌千両(1954年)
* 伝七捕物帖  女郎蜘蛛(1955年)  
* 大江戸出世双六(1955年)
* りんどう鶏(1957年)