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'''ヘルマン・ファン・ペルス'''(Hermann van Pels、[[1898年]][[3月31日]]‐[[1944年]]10月)は、「[[アンネの日記]]」を書いた少女[[アンネ・フランク]]とともに隠れ家に同居していた男性。アンネの恋人[[ペーター・ファン・ペルス]]の父親である。アンネの日記上では「ハンス・ファン・ダーン」という名前になっている。
 
[[ドイツ]]中部[[オスナブリュック]]出身の[[ユダヤ人]]で、1925年に同じくユダヤ人の[[アウグステ・ファン・ペルス]]と結婚した。1926年に一人息子ペーターを儲けた。ユダヤ人の迫害を掲げる[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチス党)が政権を掌握したのち、1935年にまず彼の姉が[[オランダ]]の[[アムステルダム]]へ移住した。1937年夏には彼の一家も故国ドイツを離れ、アムステルダムへ移住する。ファン・ペルス一家は同じくドイツから逃れてきていた[[オットー・フランク]]一家の家の近くに暮らしていた。やがてヘルマンは、オットーの会社で働くようになる。ファン・ペルス一家もひとまずの平和を取り戻した。
 
1937しかし長くは続かなかった。1940夏に5月、ドイツでのユダヤ人迫害強まるに及んで一家で故国ドイツを離れ、[[オランダ]]・を侵略し、全土を占領した。ナチスの総督[[アルトゥル・ザイ=インクヴァダム]]市へ移住する。[[親衛隊中将]]がオランダがナチスドイツに占領された統治者となり仕事仲間彼はオランダもユダヤ人迫害政策を開始させた。危険を感くドイツから逃れきていた、1942年7月23日に[[オットー・フランク]]のフランク一家とともにアムステルダム市プリンセン運河通り263番地のオットーの会社の隠れ家に隠れることとなっ。その後、2年余にわたりフランク一家や遅れて隠れ家に合流した[[フリッツ・プフェファー]]らとともに隠れ家生活を送る。しかし[[アンネ・フランク]]の日記からはフランク一家といろいろ摩擦も多かったことが窺われる
 
1944年8月4日、密告を受けて出動した[[保安警察]]の[[カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー]][[親衛隊曹長|SS曹長]]率いる部隊により隠れ家メンバーは全員逮捕された。その後、[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所]]へ送られた。、ヘルマンは、10月頃に[[ガス室]]送りとなり死亡した。ガス室での集団処理が中止される直前のことであった。
 
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