「エリオット・リチャードソン」の版間の差分

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リチャードソンは[[マサチューセッツ州]][[ボストン (マサチューセッツ州)|ボストン市]]で生まれた。彼は[[ハーバード大学]]在学中「ハーバード・ロー・レビュー」編集長を務める。卒業後[[1941年]]から[[1945年]]まで第2次世界大戦を[[アメリカ合衆国陸軍|米陸軍]]で勤務、[[1947年]]にハーバード法律大学院から法学位を得、連邦最高裁のラーニド・ハンド、フェリックス・フランクフルター両判事の法律書記を務めた。その後ボストンの連邦検事、[[マサチューセッツ州]][[司法長官]]、[[マサチューセッツ州副知事]]、[[アメリカ合衆国国務次官|国務次官]]、前述の四つの閣僚ポスト(米国史上彼だけである)、駐英大使、海洋法会議米国代表を歴任。
 
1973年10月にニクソンは、ウォーターゲート事件特別検察官[[アーチボルド・コックス]]を解任するようにリチャードソン司法長官に命じたが、リチャードソンはこの命令を拒絶し辞職した。その後[[ウィリアム・D・ラッケルズハウス]]司法長官代理が命令を行なうように依頼されたが、彼も同様に拒絶し辞職した。結局命令は三人目[[アメリカ合衆国訟務長官|訟務長官]]の[[ロバート・ボーク]]が実行した。この一件は[[土曜日の夜の虐殺]]と呼ばれる。
 
ちょうど[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]][[スピロー・アグニュー]]の辞職に先立って、リチャードソンは、1973年[[10月8日]]付けの[[タイム (雑誌)|タイム誌]]の表紙上にアグニューおよびニクソンと風刺漫画として描写された。アグニューの引用された発言:「私は私に対する非難に無罪です。もし起訴されれば、私は辞職しないでしょう!」''"I am innocent of the charges against me. I will not resign if indicted!"''