「山南敬助」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
62行目:
===岩城升屋事件===
 
元治元年1月、[[徳川家茂|将軍家茂]]警護のため大阪滞在中、[[高麗橋]]そばの呉服商「岩城升屋」(いわきますや、岩木とも)に不逞浪士数名が押し入った際、[[土方歳三|土方]]・山南両名が駆けつけて激しい戦闘の末に撃退した。この功により、山南は[[松平容保|会津]]より金8両を賜っている。山南がこの事件で使っていた「[[播磨国|播州]]住人赤心沖光作」銘の刀(2尺8寸5分=約86.4cm)は、ひどく刃こぼれし切っ先から1尺1寸(約33.3cm)のところで折れた。この刀の押し型([[魚拓]]の様に、刀の形を紙に写し取ったもの)が土方の手で[[小島鹿之助]]に送られ、現在も小島資料館にて見ることが出来る(但し、展示品は模写)。『維新史蹟図説』によればこの事件で山南は左腕を負傷したとされ、一説にはこのときの傷が元で片腕が不自由となったために[[池田屋事件]]にも留守居に甘んじるなど、武士としての立場を失ったことと近藤や土方とのすれ違いとが相まって、脱走の原因になったのではないかとも言われている。しかし一方で、池田屋事件では[[長門国|長州]]浪士の屯所襲撃に備えて、残留組の最高責任者として残っただけとする説もある。なお岩城升屋事件においては、その発生時期を文久3年7月頃とする説や、駆けつけた隊士が山南1人であったとする説もある。
 
===大河ドラマ===