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== 沿革 ==
[[1240年]]([[仁治]]元年)、[[太宰府市|太宰府]]の横岳に湛慧により建立される(現在の[[筑紫台高等学校]]近くに別院として現存)。翌[[1241年]]には[[円爾]]が開堂演法し、[[無準師範]]から与えられた「勅賜萬年崇福禅寺」の八大字を揚げて寺名とした。[[1243年]]([[寛元]]元年)には、[[承天寺]]と並んで[[官寺]]に列せられ、[[後嵯峨天皇]]より「西都法窟」の勅額を下賜される。[[1272年]]([[文永]]9年)には[[南浦紹明]]が興徳寺より転じ住持を務める。[[1586年]]([[天正]]14年)には[[島津氏]]と[[大友氏]]の間でおこなわれた[[岩屋城の戦い]]の際に焼失するも再建される
 
[[1600年]]([[慶長]]5年)、[[春屋宗園]]の請を受け、[[福岡藩]]初代藩主[[黒田長政]]によって現在地の福岡市千代町に再建。[[黒田氏]]の菩提寺として庇護を受けることとなる。境内には[[黒田孝高]]や長政らの墓所がある。[[1612年]](慶長17年)には[[島井宗室]]の寄進により塔頭瑞雲庵が再建される。[[1624年]]([[寛永]]元年)には長政から350石を寄進される。
 
[[明治|明治時代]]には[[廃仏毀釈|廃仏毀釈運動]]の煽りを受けて荒廃するも、[[1895年]](明治28年)に渡辺玄外が住職となって境内が再整備され現在に至る。