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日本の演出家・振付師 青山佳男
青心 (会話 | 投稿記録)
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'''青山 佳男'''(あおやま よしお [[1901年]] - [[1976年]]日本の[[演出家]][[振付師]]
 
 
== 略歴 ==
* 1901年、[[京都府]]にまれる。
* 1922年、松竹楽劇部生徒養成所発足の際に舞踊担当の講師として着任
* 1934年、渡欧、映画出演や独での歌劇公演の演出補佐
* 1936年頃帰国、主に松竹楽劇で活躍
* 1948年、[[藤原歌劇団]]にてオペラの演出を[[セビリアの理髪師]]で初めて手がける
 以降同歌劇団を中心にオペラの演出家として活躍
*
* 1954年、[[帝国劇場]]第8回ミュージカル『喋々さん』を演出。
 以降同歌劇団を中心にオペラの演出家として活躍
* 1954年 日伊合作映画[[喋々夫人]]を演出
 
*1954 1958 [[帝国メトロポリタン歌劇場]]第8回ミュージカル『にて[[喋々さん』を夫人]]演出
* [[1976年]][[8月27日]]、東京・港区で亡くなった。  享年75歳
*1954年 日伊合作映画[[喋々夫人]]を演出
*1958年 [[メトロポリタン歌劇場]]にて[[喋々夫人]]演出
*1976年 8月27日 逝去 
 
 
== 戦前 ==
* [[松竹歌劇団]]を中心に活躍し、1934年に渡欧、その活躍の場を国際的にも展開した。1935年には、オーストリア・トビス社の音楽映画『恋は終わりぬ』(主演:田中路子)に客演し、ドイツ・[[ベルリン国立歌劇場]]における歌劇『蝶々夫人』の制作・演出に関しても助言を求められたとされている。
 
== 戦後 ==
* [[藤原歌劇団]]を中心に主に歌劇の演出に携わり、殊に[[喋々夫人]]の解釈と演出にあたっては高い評価を受けた。  1954年に帝劇で行われた喜劇『蝶々さん』(主演:田中 路子)や日伊合作映画『蝶々夫人』(日本公開1955年  主演:[[八千草 薫]])の演出にも深く関わっており、1958年にはニューヨークの[[メトロポリタン歌劇場]]での『蝶々夫人』を演出し高い国際的評価を得た。このときのキャストは、指揮:ディミトリ・ミトロポーロス、蝶々夫人:アントニエッタ・ステラ、ピンカートン:ユージェニオ・フェルナンディ等。
* 青山はこの後もメトロポリタンで数作品の演出を手がけ、1973年に最後の演出となった東京文化会館での[[東敦子]]主演、[[喋々夫人]]の演出にあたり、「日本に対する誤解に満ちた[[喋々夫人]]を観るのは日本人として忍びない」としつつも、この作品のもつ異国情緒という点を追求し、「リアリズムの追及は、ファンタジーの追放ではなかろうか?」と述べ、「これからはこのオペラに現実の生活に即したFANTASYFANTASYを発見したい」とのコメントを残した。
 
  このことは、同作品のもつ多面的な演出、構成の可能性を示唆し、知られざるままも現在に大きな影響を残しているものと思われ   る。
*青山はこの後もメトロポリタンで数作品の演出を手がけ、1973年に最後の演出となった東京文化会館での[[東敦子]]主演、[[喋々夫人]]の演出にあたり、「日本に対する誤解に満ちた[[喋々夫人]]を観るのは日本人として忍びない」としつつも、この作品のもつ異国情緒という点を追求し、「リアリズムの追及は、ファンタジーの追放ではなかろうか?」と述べ、「これからはこのオペラに現実の生活に即したFANTASYを発見したい」とのコメントを残した。
  このことは、同作品のもつ多面的な演出、構成の可能性を示唆し、知られざるままも現在に大きな影響を残しているものと思われ   る。
 
*1976年に東京・港区で亡くなった。 享年75歳
 
== 追記 ==
* [[舞踏家]]としては橘流の名取であり、橘 佐山を名乗っていた。
 
{{DEFAULTSORT:あおやま よしお}}
[[舞踏家]]としては橘流の名取であり、橘 佐山を名乗っていた。
[[Category:日本の演出家]]
 
[[Category:京都府出身の人物]]
 
[[Category:1901年生]]
 
[[Category:日本の演出家|あおやま よしお1976年没]]