「東京地学協会」の版間の差分

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==Geographyの解釈==
東京地学協会は、渡辺洪基がウインにおいて会員だったGeographische Gesellschaft、鍋島直大、長岡護美がロンドンにおいて会員だったGeographical Societyを範としているのに、geographyの訳語をそのまま用いて地理学協会と名付けず「東京地学協会」と名付けている。これには2つの理由が考えられている。一つは、当時、明治10-20年代、地理という言葉は中国伝来の国郡誌(方誌)をさしていたと思われることである。これは、文献を模索することで地方国軍の沿革を調べ、一定の基準によって現状を記載することだ。この史官的思想によって、日本では明治初期から太政官地誌課あるいは内務省地理局において、「皇国地誌」の編集を全国的に進行させていた。これが当時の地理のもつ固定した意味であった。もう一つは、西洋伝来のゼオガラヒーの意味である。この言葉は、幕末には、五大洲の形状、人種、各国の政体・都府・軍備等を主とする諸国誌を意味し、やがて慶応から明治初期にかけては、国尽くし・往来もの風の世界知識を意味し、さらに学制発布に伴い文部省や師範学校にとり入れられて、教育のための重要な素材として用いられたものを意味した。このような意味内容で解釈された地理以外のものを渡辺洪基らがヨーロッパでみて、それを日本でも必要だと考え、それを日本語で表わすには、従来の地理では誤解を招く可能性があったため、協会の創設者たちはGeographical Societyを地理学協会とせず、地学協会としたのである。なぜ、従来の地理では誤解を招く可能性があったのかと言うと、当時の人々にとって地理は江戸時代以来の、土地・国状の記載を意味していたからである。当時の人々は、Geology(地質学)を、土地のことを研究する学問と解釈し、それを地学とよんだ。小藤文次郎は、元来、地学は地球学の意味であったが、東京地学協会の人々は、地球学を省略して地学とし、その名称が類似しているため、地理学Geo-graphyをErdkunde(地学)としたと述べている。現在、日本で地学はEarth Scienceと訳され、Geographyは地理学であるのに、地学雑誌の英名が「journal of Geography」となっている理由もここにある。
 
==学問としての地理学に貢献した人々==
学校教育では、地理の知識の必要性は認められても、地誌的知識と地球に関する一般教育が上級学校でなされた程度であった。研究としての地理学も長くは発達せず、大学程度の地理学は明治20年頃から理科大学(小藤文次郎)、文科大学(Riess、坪井九馬三)ではじまった。30年代に山崎直方(理科大学)、40年代に法科大学(山崎)で行われたが、専門課程としての地理学講座は明治40年、京大文科大学(史学科、小川琢治、石橋五郎)、44年、東大理科大学(地質学科、山崎)にできた。東京大学地質学科第一回卒業生の小藤文次郎は、地理学に特別の関心を示し、明治18年ドイツ留学から帰国して、理科大学教授となり、地質学の研究・教育に従事するとともに、明治22年地学雑誌を創刊すると、地理学について十数回にわたって講義を執筆した。彼の論稿は、従来の東洋的な内務省地理局風の地理学ではなく、ドイツで見て学びそして身につけてきた地理学だった。これは、日本語で西洋風地理学の体系を導入した第一歩といえる。明治10-20年代の小藤らの地理学は地学(Erdkunde)としてこれをとらえた。小藤らは、地学は土地の学(geo-logy)で地質学・鉱物学・地理学を含んだものであるとした。他方で、幕末以来、地理学は地球星学と地文学と邦制地理から構成されるというのが通説であり、小藤らの地学者の地理学も地球星学・地文学の自然地理的なものと、邦制地理の人文的なものとを、何かしらの限定も理論もなく並列して顧みないといった矛盾をもっていた。しかし、地理学の中で学問として最も早く定立していったのは、ヨーロッパの場合同様、自然科学的側面、特に地質・地体構造から地貌地形に関する研究記述であった。
近代的な意味で、地理学は研究の専攻科目としては成立しなかった。地理学が正式な形で抗議票に載るのは、明治35年、山崎直方がヨーロッパから帰国して東京高師教授となり、理科大学講師を兼ねて、代3年に地理学3時間、図学実習1時間を担当してからである。それは、明治44年には勅令による地理学講座となり、翌年山崎直方は理科大学の生教授となって、大正8年に地質学科して地理学科となり、教室を創設して、地理を専攻とする学生を募集するようになった。東京に対し、京都にも明治30年に帝国大学が創設され、明治40年になると文科大学に史学地理学講座二がおかれた。ここに転任してきた小川琢治は、翌年から地理学通論・地理学各論、地図及び地図使用法を担任した。小川琢治は明治33年に地学協会に入会し、地学雑誌の編集を任された。彼は当時から地質・鉱物と人文・社会の問題について、両者を相互に扱うことができた。また、外国旅行談・探検談を多く掲載し、地学雑誌の体質をつくりだした。
 
== 主要特別刊行物 ==
日本鉱産誌(地質調査所編)1950~1960年
 
東亜地質鉱産誌(小倉 勉ほか)3巻、1952年
 
東亜地質図幅(25万分の1)127枚、1953~1960年
 
伊能忠敬の科学的業績(保柳睦美編著)1974年
 
伊能図に学ぶ(東京地学協会編)1998年
 
== 取扱出版物 ==
産業技術総合研究所発行の地質図幅類全般
 
1/5万,1/7.5万,1/20万,1/100万,1/200万地質図および説明書
 
海洋地質図,火山地質図,水理地質図,特殊地質図
 
地質構造図,1/50万活構造図,重力図
 
数値地質図(CD-ROM)
 
日本地質文献目録
 
== 参考文献 ==