「東京地学協会」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目:
{{東京地学協会}}
{{wikify}}
 
'''東京地学協会'''(とうきょうちがくきょうかい '''Tokyo Geographical Society)Society''')は、1879(明治12)年4月18日に創立された、地学に関する研究調査を積極的に行い、地学における専門分野の連携を促すことで、その総合的な発展・普及を推進することを目的とした、文部科学省所管の特例民法法人である。
 
 
16 ⟶ 17行目:
 
==日本の地球科学界における役割==
東京地学協会が、西洋的地理学を日本へ導入し、それが発達するに伴い、地理学は自然地理学の分野において成長してきた。その後、[[人文科学]]の発達が地理学の中にも及び、[[人文地理]]という分野が発達し、さらに、[[社会科学]]的方法による経済地理や社会地理が発達した。このことから、西洋的地理学は現在における日本の地理学の発展への一歩として不可欠なものであり、東京地学協会の果たした大きな役割のひとつは、その一歩を踏み出したことである。また、海外の調査研究を数多く行い、その調査結果の分析・研究を深め、国内に限らず地球規模での研究を重ね、地球科学の発展に貢献している。近代に入ると地質鉱物学、地理学、地球物理学など、専門的に分化した地学の諸分野に科学的見地からアプローチを行い、その研究成果と、社会とをむすびつける役目を担っている。
 
==Geographyの解釈==
東京地学協会は、渡辺洪基がウインにおいて会員だったGeographische Gesellschaft、鍋島直大、長岡護美がロンドンにおいて会員だったGeographical Societyを範としているのに、geographyの訳語をそのまま用いて地理学協会と名付けず「東京地学協会」と名付けている。これには2つの理由が考えられている。一つは、当時、明治10-20年代、地理という言葉は中国伝来の国郡誌(方誌)をさしていたと思われることである。これは、文献を模索することで地方国軍の沿革を調べ、一定の基準によって現状を記載することだ。この史官的思想によって、日本では明治初期から太政官地誌課あるいは[[内務省]]地理局において、「皇国地誌」の編集を全国的に進行させていた。これが当時の地理のもつ固定した意味であった。もう一つは、西洋伝来のゼオガラヒーの意味である。この言葉は、幕末には、五大洲の形状、人種、各国の政体・都府・軍備等を主とする諸国誌を意味し、やがて慶応から明治初期にかけては、国尽くし・往来もの風の世界知識を意味し、さらに[[学制]]発布に伴い[[文部省]]や師範学校にとり入れられて、教育のための重要な素材として用いられたものを意味した。このような意味内容で解釈された地理以外のものを渡辺洪基らがヨーロッパでみて、それを日本でも必要だと考え、それを日本語で表わすには、従来の地理では誤解を招く可能性があったため、協会の創設者たちはGeographical Societyを地理学協会とせず、地学協会としたのである。なぜ、従来の地理では誤解を招く可能性があったのかと言うと、当時の人々にとって地理は江戸時代以来の、土地・国状の記載を意味していたからである。当時の人々は、Geology(地質学)を、土地のことを研究する学問と解釈し、それを地学とよんだ。[[小藤文次郎]]は、元来、地学は地球学の意味であったが、東京地学協会の人々は、地球学を省略して地学とし、その名称が類似しているため、地理学Geo-graphyをErdkunde(地学)としたと述べている。現在、日本で地学はEarth Scienceと訳され、Geographyは地理学であるのに、地学雑誌の英名が「journal of Geography」となっている理由もここにある。
 
==学問としての地理学に貢献した人々==
学校教育では、地理の知識の必要性は認められても、地誌的知識と地球に関する一般教育が上級学校でなされた程度であった。研究としての地理学も長くは発達せず、大学程度の地理学は明治20年頃から理科大学(小藤文次郎)、文科大学(Riess、坪井九馬三)ではじまった。30年代に山崎直方(理科大学)、40年代に法科大学(山崎)で行われたが、専門課程としての地理学講座は明治40年、京大文科大学(史学科、小川琢治、石橋五郎)、44年、東大理科大学(地質学科、山崎)にできた。[[東京大学]]地質学科第一回卒業生の小藤文次郎は、地理学に特別の関心を示し、明治18年ドイツ留学から帰国して、理科大学教授となり、地質学の研究・教育に従事するとともに、明治22年地学雑誌を創刊すると、地理学について十数回にわたって講義を執筆した。彼の論稿は、従来の東洋的な内務省地理局風の地理学ではなく、ドイツで見て学びそして身につけてきた地理学だった。これは、日本語で西洋風地理学の体系を導入した第一歩といえる。明治10-20年代の小藤らの地理学は地学(Erdkunde)としてこれをとらえた。小藤らは、地学は土地の学(geo-logy)で地質学・鉱物学・地理学を含んだものであるとした。他方で、幕末以来、地理学は地球星学と地文学と邦制地理から構成されるというのが通説であり、小藤らの地学者の地理学も地球星学・地文学の自然地理的なものと、邦制地理の人文的なものとを、何かしらの限定も理論もなく並列して顧みないといった矛盾をもっていた。しかし、地理学の中で学問として最も早く定立していったのは、ヨーロッパの場合同様、自然科学的側面、特に地質・地体構造から地貌地形に関する研究記述であった。
近代的な意味で、地理学は研究の専攻科目としては成立しなかった。地理学が正式な形で抗議票講義表に載るのは、明治35年、山崎直方がヨーロッパから帰国して東京高師教授となり、理科大学講師を兼ねて、代3年に地理学3時間、図学実習1時間を担当してからである。それは、明治44年には勅令による地理学講座となり、翌年山崎直方は理科大学の生教授となって、大正8年に地質学科して地理学科となり、教室を創設して、地理を専攻とする学生を募集するようになった。東京に対し、京都にも明治30年に[[帝国大学]]が創設され、明治40年になると文科大学に史学地理学講座二がおかれた。ここに転任してきた小川琢治は、翌年から地理学通論・地理学各論、地図及び地図使用法を担任した。小川琢治は明治33年に地学協会に入会し、地学雑誌の編集を任された。彼は当時から地質・鉱物と人文・社会の問題について、両者を相互に扱うことができた。また、外国旅行談・探検談を多く掲載し、地学雑誌の体質をつくりだした。
 
== 参考文献 ==