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初代'''依仁親王'''は、[[1867年]]([[慶応]]3年)に誕生。幼名を'''定麿王'''という。[[1869年]](明治2年)に[[山階宮]]の養子となり'''山階宮定麿王'''を名乗った。[[1885年]](明治18年)に[[小松宮]]の養子となる。翌年、[[親王宣下]]により'''小松宮依仁親王'''となった。[[1898年]]、[[東伏見宮妃周子|岩倉周子]]と結婚。[[1903年]](明治36年)に、[[小松宮彰仁親王]]が薨去する際に依仁親王の継嗣を停止したため、依仁親王は新たに'''東伏見宮'''家を創設した。
 
軍歴としては、[[1884年]](明治17年)に英国留学。さらに、[[1890年]](明治23年)フランス・[[ブレ (フランス)|ブレスト]]海軍兵学校を卒業し、その後、横須賀鎮守府司令長官、第二艦隊司令長官を歴任し、[[海軍大将]]に上る。また、英国[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]の[[戴冠式]]に参列し、大日本水産会総裁、日仏協会名誉総裁などを歴任。[[1920年]](大正11年)、56歳で薨去。[[元帥]][[大勲位菊花章頚飾]]を追号された。
 
== 東伏見邦英 ==