「筆記体」の版間の差分
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[[文字]]は、もともと筆記で書かれるものからはじまり、その後さまざまな書体が開発されるという発展の様式をたどった。その中で、筆記で書くのに適した、[[一筆書き]]のように文字を続けて書く手書き文字、あるいはそれに似せた印刷用の書体([[活字]]やコンピュータ用の[[フォント]]など)のことを「筆記体」と呼ぶ。日本において筆記体と言えば通常は[[ラテン文字]]のものを指し、フォントとして「イタリック」「カッパープレート」「カーシヴ・スクリプト」「[[ツァッフィーノ]]」などがある。
日本語文字などの漢字圏において同様のものとしては「[[行書体]]」「[[草書体]]」などがある。英語ではそれぞれ「'''セミ・カーシヴ'''(''[[:en:semi cursive|semi cursive]]''、'''準筆記体'''の意)」「'''カーシヴ'''(''[[:en:cursive|cursive]]''、'''筆記体'''の意)」と呼ばれる。一方、中国語圏ではラテン文字の筆記体を「手写体」({{繁体字|手寫體}}、{{簡体字|手写体}})と呼ぶが「手写体」自体は[[篆書体]]や[[隷書体]]、[[楷書体]]などの[[書道|書芸]]で主に使われる書体を指す。
== ラテン文字 ==
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[[ラテン文字]]における筆記体(Cursive style)は、各単語内のすべての文字を連結させ、
一本の複雑な筆線で記述する筆記の形式である。イギリスでは専ら“joined-up writing”という用語が用いられており、またオーストラリアではしばしば“running writing”という用語が使われている。筆記体は、手書き文字と活字の折衷である[[ブロック体]]や、[[活字]]体とは異なるものであると見なされている。
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17世紀前半のマサチューセッツ州[[プリマス植民地]]の知事ウィリアム・ブラッドフォードの手書き文字では、ほとんどの文字は分離されていたが、少数の文字は筆記体のように連結されていた。その1世紀半後にあたる18世紀後半には、この状況は逆転していた。[[トーマス・ジェファーソン]]による[[アメリカ独立宣言]]の草稿では、すべてではないにせよ、ほとんどの文字は連結されていた。後日職人により清書された独立宣言は、完全な筆記体で記述されていた。その87年後の19世紀半ばには、[[エイブラハム・リンカーン]]が今日とほとんどと変わらない筆記体で[[ゲティスバーグ演説]]の草稿を書き上げていた。
タイプライター発明以前の18世紀および19世紀において、公的な通信文は筆記体により記述されていた。これらの筆記体は見栄えの良さを意味して「フェア・ハンド
女性による手書き文字は男性による手書き文字とは明らかに異なっていたが、普遍的な手書き文字の形式には急速な変化は起こらなかった。19世紀半ばには比較的少数の児童にしか筆記体は教えられておらず、それが重要な技術であったために、筆記体を学習する事の重要性が強調されていたが、教室において効率的に筆記体を普及させるための努力は行われなかった。20世紀半ばに達した時には、僅かな簡略化しか行われていなかった。時間割の一例を挙げれば、アメリカ合衆国において筆記体が教えられようになるのは、通常2年生か3年生(7~9歳)の学童に対してであった。
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[[大文字]]は筆記体特有の字体を使用するが、いくつかの筆記体では活字体に関連付けられた字体を使用している。
伝統的に、一つの単語の中にある連結された全ての筆線は、「'''t'''の横棒を引き、'''i'''の点を打つ
18世紀から19世紀半ばまでの手書きの筆記体は、18世紀の版画の見出し文字に使用されていた、より美術的な筆記体[[カッパープレート]] (Copperplate) とは異なっていた。カッパープレートでは小文字体の[[アセンダ]]や[[ディセンダ]]が太い実線で書かれるのに対し、筆記体では細い輪で書かれる。これは、事務で使用するインクを節約するためであったと考えられる。
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