「オペレーション・ベビーリフト」の版間の差分

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en:Operation Babylift(03:26, 3 July 2009)より抄訳補足
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'''オペレーションベイビーリフト'''(Operation Babylift)は、[[ベトナム戦争]]末期の[[1975年]][[4月4日]]から[[4月26日]]に起こなわれかけて[[アメリカ空軍]]が行っ、[[南ベトナム]]の孤児を大規模に[[アメリカ合衆国]]本土など輸送す避難させための空輸作戦名である。
 
作戦の第一便が起こした[[航空事故]]でも知られている。
== 離陸 ==
1975年4月4日から4月26日にかけて[[ベトナム戦争]]中に[[アメリカ空軍]]により、ベトナム孤児をアメリカに輸送する作戦「オペーレーション・ベイビー・リフト」が行われた。
 
== 孤児移送作戦 ==
この作戦の第一便に孤児を含む乗員乗客328名が[[C-5 (航空機)|ロッキードC-5ギャラクシー]](機体番号68-0218号機)に乗り込んだ、C-5は、ベトナムのサイゴンを離陸した、上空に急いだため離陸後は、通常より高い上昇率で上昇した。
ベトナム戦争が終わりに近づくにつれて、ベトナム人の孤児とアメリカ人家庭との養子縁組が増加した。1975年3月に[[ダナン]]が陥落して[[サイゴン]]にも戦火が迫ると、数十万の市民が脱出を開始した。こうした中で、ベトナム人孤児たちの生命も気遣われ、国際養子縁組を進める慈善団体であるホルト{{enlink|Holt International Children's Services}} やフレンド・オブ・チルドレン・オブ・ベトナム(FCVN)、府レンズ・フォー・オール・チルドレン{{enlink|Friends For All Children}}(FFAC)、カトリック救援奉仕事業、国際社会奉仕事業、インターナショナル・オーファンズ{{enlink|Childhelp}}、パール・バック財団などが、アメリカ政府と軍に孤児たちの退避のための要請を行った。
機内では、乗員と孤児が楽しく話していたという(生存者証言)。
 
1975年4月3日、[[ジェラルド・フォード]]大統領は、[[C-5 (航空機)|ロッキードC-5ギャラクシー]]輸送機による30回のフライトで孤児たちを避難させるという「オペレーション・ベイビーリフト」の開始を声明した。翌[[4月4日]]に飛び立った第一便は事故を起こし、助かるはずであった幼児や子供が大勢亡くなった。この事故の結果、この作戦は米国内外の関心と同情を集めることになった。作戦はその後も継続され、北ベトナム軍の攻撃により[[タンソンニャット国際空港|タンソンニャット空港]]が使用不可能になる[[4月26日]]まで継続された。
== 異常事態 ==
離陸から数分後爆発音とともに機体は大きく揺れ急減圧が発生した。機体後部にいた人は、機体の穴に驚いたという、操縦士は、空港に着陸を試みたが、機体のコントロールが利かず、降下を始めた、しかし機長がエンジンの推力を上げると、機体は降下をやめたが急上昇をはじめ、機種が90度の角度まで上がった、そのため機長は、推力を下げた、すると今度は、機種が下がり高度10000フィートで水平飛行になった。
操縦士たちは、空港へ戻るためUターンを始めた、
 
あわただしい異国への「避難」が孤児たちにとって最善であったのかという点が問題にされることもある。「養子」の中には書類が不備のものもあり、のちに実の親や親族との間で親権をめぐる争いが生じたケースもあるなど、養子縁組団体の活動には当時から議論の的ともなっていた。
== 不時着 ==
C-5は、10000フィートから降下をはじめ、機種を滑走路に向けようとした瞬間、操縦が再び利かなくなり急降下を始めた。
機長が、畑に着陸を試みたが時速500kmという猛スピードで後部車輪を衝突させた、機体はバウンドし高度が一時的に上がったが再び降下を始めた、再び着陸を試みたが機長は目の前に川があることに気づき、推力を増したが畑に機体後部から衝突、機体はその瞬間、コックピット、機体中部、後部、主翼に分解し、地面を滑走しているうちに、後部や主翼は、細かく分解し始めた
機体は大きく破壊されコックピット部分は、衝突地点から転がりながら停止した
 
「オペレーション・ベイビーリフト」の結果、戦禍の中から3300人以上の孤児が助け出され、アメリカなど各国に養子として迎えられることになった。
乗員乗客328人中153人が死亡し生存者は、175人 作戦は失敗した
 
== 異常航空 ==
機体中部の被害状況は少なく客室(2階)にいた、乗員や幼児のほとんどは、生存していたが、不時着時に機体中部の貨物室(1階)の乗員や子供は、衝撃により即死した、コックピットの中にいた操縦士や機関士は、全員が生存した、
=== 事故原因の概略 ===
[[1975年]][[4月4日]]、この作戦の第一便として、孤児を含む乗員乗客328名が[[C-5 (航空機)|ロッキードC-5ギャラクシー]](機体番号68-0218号機)に乗り込んだC-5は、ベトナムの午後4時すぎにサイゴンのタンソンニャット空港を離陸した。地空に急いだからの攻撃を避けるために、離陸後は通常より高い上昇率で上昇した。生存者の証言によると、機内では乗員と孤児が楽しく話していたという
 
離陸から数分後爆発音とともに機体は大きく揺れ急減圧が発生した。機体後部にいた人は、機体に開いた穴に驚いたという操縦士は空港への着陸を試みたが、機体のコントロールが利かず、ないまま降下を始めた、しかし機長がエンジンの推力を上げると、機体は降下をやめは止まったが、今度は急上昇をはじめ種が90度の角度が90度まで上がった、そ。このため機長は推力を下げた、す今度は、種が首をがりげて機体を安定させ、高度10000フィートで水平飛行になった。操縦士たちは空港へ戻るためUターンを試みたが、再び機体はコントロールを失い急降下を始めた。
== 事故原因 ==
調査の結果機体後部の扉ハッチは、[[アメリカン航空96便貨物室ドア破損事故|アメリカン航空96便]]、[[トルコ航空DC-10パリ墜落事故|トルコ航空981便]]、[[ユナイテッド航空811便貨物ドア脱落事故|ユナイテッド航空811便]]の事故のようにドアロックの不良により吹き飛び、回線が切れコントロールが利かなくなった、
この事故の場合、ハッチのロック部分を調節するパイロットという部分が、他のC-5に使われていたため、事故機のハッチのロック部分14箇所の内3箇所のロックが完全ではなかった、そのため機体が与圧されると、ハッチのロックが限界になり、外れた
それと同時に水平尾翼の昇降舵の油圧が切れ、上昇や降下などの現象が起きた。
 
機長が、畑には水田への不時を試みたが、機体は時速500kmという猛スピードで後部車輪を衝突させた、機体はバウンドし高度が一時的に上がっが再び降下を始めた、着陸を試みた機長は目の前に川があることに気づき、いて推力を増したが畑に、そのまま機体後部から水田に衝突した。衝突、機体はその瞬間、機体はコックピット機体中後部主翼に分解しながら地面を滑走しているうちに、た。機体後部や主翼は滑走中に粉砕され細かくコックピット部は衝突地点から転がりながら停止始め
 
機体中2階客室(2階)は被害状況は少なく客室(2階)にいた、乗員や幼児のほとんどはてい。しかし不時着時に機体中1階の貨物室(1(1)の)にいた乗員や子供は、不時着時の衝撃によって即死したコックピットの中にいた操縦士や機関士は全員が生存した。乗員乗客328人中153人が死亡した。生存者は175人だった。
== その後 ==
 
この事故が原因で助かるはずの幼児や子供が大勢亡くなったが、その後の何回の作戦により、戦争から3000人の孤児がたすかることになった。
=== 事故原因 ===
[[サイゴン陥落]]・南ベトナム政権崩壊直前の事故であったため、事故原因の調査は困難を極めた。
 
調査の結果、機体後部の扉ハッチがドアロックの不良によって吹き飛び、回線が切れてコントロールが利かなくなったことがわかった。同様の原因による事故には、がある。
 
ベトナム戦争末期、部品不足に悩まされていた空軍は、部品を取り外して他の機に流用することでメンテナンスを行っていた。この事故の場合、ハッチのロック部分を調節するパイロットという部分が他のC-5に使わ回されていたため、事故機のハッチのロック部分14箇所の内3箇所のロックが完全ではなかったそのため機体が与圧されると、ハッチのロックが限界になり外れてしまった。それと同時に水平尾翼の昇降舵の油圧が切れ、上昇や降下などの現象が起きたのであっ
 
== 関連項目 ==
*[[航空事故ベトナム戦争]]
*同様の原因による[[航空事故]]
**[[ユナイテッド航空811便貨物ドア脱落事故]]
**[[トルコ航空DC-10パリ墜落事故]]
**[[アメリカン航空96便貨物室ドア破損事故]]
 
== 外部リンク ==