「海老根恵太」の版間の差分

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しかし、日本の400mハードルの競技レベルが低いこともあって陸上選手として選手生活を送って行くのは厳しいと考えた海老根は大学卒業後、競輪選手に転身することを考え海老根の高校の先輩でもある森下太志に師事する傍ら[[東出剛]]らのサポートも受け、日本競輪学校を適性試験で受験し見事86期生として合格。競輪学校での在校競走成績は51位(12勝)。主な同期には、[[井上昌己 (競輪選手)|井上昌己]]、[[稲垣裕之]]、[[村上博幸]]らがいる。
 
[[2001年]][[8月11日]]、[[伊東温泉競輪場]]でデビューし、初勝利も同日。さらにこの開催では完全優勝を果たした。[[2004年]][[12月29日]]に行われた[[ヤンググランプリ|ヤンググランプリ04]]では、五十嵐力の逃げを2センターで捲りきって優勝。翌[[2005年]]12月、[[岸和田競輪場]]で開催された[[全日本選抜競輪]]決勝では3着。さらに[[2006年]]の[[競輪祭]]決勝では海老根以外に先行選手が見当たらないメンバー構成となったことから人気の中心となり、最終ホームから果敢に逃げたが、[[小倉竜二]]のゴール前の強襲に屈し惜しくも2着となった。その後、[[寛仁親王牌]]でも決勝進出(8着)を果たしている他、この頃はGIIでも決勝の常連だった。
 
同年7月、[[鳥取県]]の倉吉自転車競技場で開催された[[全日本自転車競技選手権大会]]のケイリンで優勝したことから、同期の稲垣とともに、同年12月に開催される、[[ドーハ]][[2006年アジア競技大会|アジア競技大会]]のケイリン日本代表選手に選出された。しかし、9月に[[花月園競輪場]]で開催された[[オールスター競輪]]の準決勝で、1着でゴールしながらも、4角で内圏線内内側から追い抜いたと判定されて失格を取られたあたりからリズムが狂い始める。アジア大会のケイリンでも優勝候補の一角に挙げられながらも一次予選で他選手の落車に乗り上げて転倒(出走6名中海老根を含めて4名が落車)。怪我のため敗者復活戦も棄権してしまった。
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これら[[2008年]]の年間獲得賞金額上位となる活躍により、[[2009年]]はS級S班に格付され、2月に[[高松競輪場]]で開催された[[東西王座戦]]では東日本王座決定戦をタイヤ差ながら逃げ切って優勝した。
 
さらに7月の寛仁親王牌の決勝では、2段駆け態勢を敷いて先行した関東ラインの4番手をうまく取りきり、そして最終4コーナーからその関東ラインの野望を打ち砕く強烈な差し脚を見せ、見事GI初制覇を果たし、[[KEIRINグランプリ]]09の出場権も手に入れた。
 
== 競走スタイル ==