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この事件によって、輔仁親王は白河法皇に警戒され、[[元永]]2年([[1119年]])憂悶のうちに死去したとされているが、その一方で白河法皇は輔仁親王の子である[[有仁王]]を自己の猶子として遇し、鳥羽天皇の皇子誕生後の元永2年に有仁が[[臣籍降下]]した直後に公卿に列せさせて以後もこれを庇護するなど、硬軟両面の対応をしている。また、村上源氏、特に本来嫡流と考えられていた俊房の系統が没落して弟の顕房の系統が嫡流とされ、顕房の子・雅実を祖と仰ぐ[[久我家]]をはじめとする多くの[[堂上家]]を輩出するなどの影響があったとされているが、俊房系の没落の原因としてはその長男である[[源師頼|師頼]]がこの事件以前より隠遁の態度を示して長く不出仕の状態にあったこと<ref>源師頼は[[藤原頼長]]をして「先師」(『[[台記]]』)と称せられる程の碩学であったが、永久以前の[[天仁]]元年([[1108年]])の段階で3年間の不出仕を理由に殿上籍を削られ、以後、[[大治 (日本)|大治]]5年([[1130年]])[[権中納言]]に昇進するまで全く官位に変動がなかった(山内益次郎『今鏡の周辺』(和泉書房、1993年)ISBN 978-4-87088-572-1)。</ref>が俊房流全体に対しても影響を与えているとも考えられる。
 
このため、この事件は仮に仁寛が計画していたとしてもそれは個人的な計画もしくはそれに近いものであったこと、また仁覚以外の何らかの政治的陰謀が絡んでいたとしても結果論としては鳥羽天皇の1代についての皇位が安定した以上の結果ものはもたらさなかった<ref>元永2年に鳥羽天皇に[[顕仁親王]]([[崇徳天皇]])が誕生して有仁王が臣籍に降下するまでは次期皇位継承者は確定しておらず、事件以後も輔仁親王や有仁王への皇位継承の可能性完全には消滅してはいなかった。</ref>と考えられている。以後も、白河法皇の院政を中心としつつ、摂関家以下の藤原氏や村上源氏などによって朝廷を構成する体制は継続され、天皇暗殺未遂計画という事件の重大性にも関わらず、現実の朝廷内に大きな権力変動を及ぼすようなこともなかったと考えられている。
 
== 脚注 ==