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== 東ローマ(ビザンツ)期の戦車競走 ==
[[画像:Venice - St. Marc's Basilica 10.jpg|thumb|275px|[[ヴェネツィア]]、[[サン・マルコ寺院]]の像]]
330年、[[コンスタンティヌス1世]]は新しい首都[[コンスタンティノポリス|コンスタンティノープル]]の開都と同時に円形競技場を開場した。ローマ人ほどには多くの記録や統計をビザンツ人は残していないが、東ローマ帝国はローマ世界の[[パンとサーカス]]の伝統を受け継ぎ、戦車競走は祝日や皇帝の誕生日など帝都の祝祭に欠かすことのできない興行として市民の人気を集めた。競技場には御者の像が建てられ、肖像入りのメダルやカメオも作られた<ref>ミシェル・カプラン([[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]]監修)『黄金のビザンティン帝国 文明の十字路の1100年』創元社、1993年、p. 67. ISBN 9784422210780</ref>。
 
コンスタンティヌス大帝は異教崇拝の残滓と見なしていた[[剣闘士]]競技よりも戦車競走のほうを好んだ。敬虔なキリスト教徒であった[[テオドシウス1世]]によって、異教を排しキリスト教を推進する動きの中、オリンピックは394年に遂にその歴史を終えたが、戦車競走の人気は衰えなかった。コンスタンティノープルの競技場(かつてのギリシアの競技場のように屋根のないものではなくまさしくローマ風のもの)は、皇帝の宮殿と[[アヤソフィア|聖ソフィア大聖堂]]とつながっており、観客はローマでそうであったように皇帝の姿を見ることができた。