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一方、四位・五位の者が昇殿を認められるには昇殿宣旨を受ける必要があった。[[殿上人]]・雲客と呼び、昇殿を許されない[[地下人|地下]]との間に明確な区別があり、[[公家社会]]における身分基準の基本とされた。なお、殿上人にも例外があり、[[六位蔵人]]はその職務上の必要から昇殿宣旨を受けられた(この場合、[[蔵人所]]が申請を行って宣旨を得た)。また、[[摂関家]]などの有力者の子や孫は[[蔭位]]に基づく[[小舎人]]の資格で昇殿が許された。これを'''童殿上'''(わらべでんじょう)と呼ぶ。
 
なお、犯罪などに問われると[[除籍]](じょじゃく)処分によって昇殿が停止されて殿上の間にあった簡が撤去された<ref>除籍されるのは必ずしも重大な事件だけとは限らない。例えば[[文治]]元年11月24日に[[豊明節会|豊明]]の宴で[[侍従]][[藤原定家]]が[[近衛少将]][[源雅行]]による嘲笑に憤慨して宮中の矢庭において雅行を脂燭で殴りつけたために除籍されている(『[[玉葉]]』文治元年11月25日条)。なお、定家は翌年3月に還昇している。</ref>。このため、除籍処分を「簡を削る」とも称した。また、一度除籍を受けた者は処分が撤回・赦免されない限りは[[官位]]の[[補任]]を受けられなかったため、その前に再度昇殿が認められる必要があった。これを'''還殿上'''(かえりでんじょう)・'''還昇'''(かんしょう/げんしょう)と呼んだ。
 
宇多天皇の時代には殿上人は30名前後であったが、院政期には内裏・院御所ともに急増した。このため、[[後鳥羽天皇]]は退位時にこれまでの慣例であった在位中の昇殿をそのまま院御所に持ち込む規定を取りやめて80名近い殿上人を44名に削減する「リストラ」を断行している。これはその一方で[[院近臣]]を信頼できる側近・能吏に絞り込む効果もあり、[[院政]]運営の都合もあった。