「李茂貞」の版間の差分

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[[888年]]、[[鳳翔]][[節度使]]の反乱を鎮めた李茂貞はその後任を任じられて検校太尉・侍中・隴西郡王に任じられた。李茂貞は庶民出身であるために民間に通じており、民政に力を注ぎ領内の戦乱による荒廃からの復興を成功させる。
 
[[891年]]、隣接する[[興元]][[節度使]]の反乱を鎮めてその本拠であった[[漢中]]を支配すると朝廷が派遣する後任[[節度使]]を妨害し、腹心を[[留後]](代官)として派遣したため、実質的に2つの節度使を兼任する事となる。これに激怒した[[]]の[[昭宗 (唐)|昭宗]]は[[894年]]に李茂貞討伐軍を起こすが、李茂貞が倒された場合に次の粛清の対象となることを恐れた他の[[節度使]]が皇帝への協力を拒んだために討伐は失敗、李茂貞が[[関中]]全域を平定する結果をもたらした。
 
これに勢いづいた李茂貞は[[901年]]に[[昭宗]]に迫り「岐王」の称号を授かった上に、皇帝を自分の根拠である[[鳳翔]]に遷して遷都を宣言するのである。この時10道20州を統治した李茂貞は帝位を簒奪できる勢力を有するに至った。
 
== 即位 ==
[[]][[昭宗]]より'''岐王'''に封じられた李茂貞であるが、急速な勢力拡大に他の[[節度使]]が激しく反発し、[[朱全忠]]や[[李克用]]ら有力者が李茂貞討伐へ動き出す。[[903年]]に[[宝鶏市|鳳翔]]を包囲した[[朱全忠]]は[[蜀]]の[[王建 (前蜀)|王建]]と結び挟撃、李茂貞は[[昭宗]]を[[朱全忠]]に引き渡して降伏した。
 
領土も二道七州に削減され,没収された領地は朱全忠と王建によって分割された。
 
[[907年]]、朱全忠は[[]]を滅亡させ[[後梁]]を建国する。この動きに合わせ各地方の藩鎮も次々と地方政権を樹立し「王」や「皇帝」を自称するに至った。先の戦いで勢力をそがれた李茂貞であるが王府を開き、百官を設置し自立政権としての体裁を整えた。また居所を宮殿、妻を皇后と称すなどしたが、昔日の勢力は無く、後梁と[[前蜀]]にはさまれ細々と命脈を保っていたに過ぎない。
 
[[後唐]]の[[李存勗]]が[[後梁]]を滅ぼすと、[[924年]]に李茂貞はその圧力に屈してその領土を[[李存勗]]に献上した。李存勗は[[後唐]]の諸侯王として「秦王」の称号を与えたが、国家としての「岐」はここに滅亡した。ほどなく李茂貞は病死する。鳳翔県(陝西省宝鶏市金台区陵郷陵村の東)で妻との合葬墓に葬られた。今日では[[1998年]]に墓が発見され、[[1999年]]11月と[[2001年]]4月から9月にかけて発掘調査が行なわれ、その報告集も公刊されている。