「ダカール・ラリー」の版間の差分

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Y.Yamazaki (会話 | 投稿記録)
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== 歴史 ==
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本ラリーの創始者は[[ティエリー・サビーヌ]]である。「'''私にできるのは、“冒険の扉”を示すこと。扉の向こうには、危険が待っている。扉を開くのは君だ。望むなら連れて行こう'''」は、1978年の第1回開催の時に彼が言ったとされる。ティエリーは運営団体としてTSO(ティエリー・サビーヌ・オーガニゼーション)を設立、主催者としてパリ・ダカを象徴する存在となる。しかし、ティエリーは1986年に競技期間中に起こったヘリコプター墜落事故により死去、彼の遺志とTSOは父ジルベールによって引き継がれた。だが、そのジルベールもティエリー程のカリスマ性を持つには至らず、高齢を理由に[[1994年]]1月に引退。TSOは主催者権を売却し、[[1994年]]からはフランスのアモリー・グループである「ASO」([[アモリ・スポル・オルガニザシオン]])が主催している。
 
[[1986年]]の大会では6人の死者を出したことがある。
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[[1988年]]にはオート部門首位だった[[アリ・バタネン]]の車両が盗難に遭うという事態が発生した。後に失格の裁定が下されるが、致命的なトラブルを抱えていた[[プジョー]]の自作自演という説も根強く残っている。またこの時、失格の裁定を巡って、プジョーと[[FIA]](と言うより[[ジャン・マリー・バレストル]]個人)の間で対立が生じている。
 
[[1991年]]には[[シトロエン]]チームのサポートカミオンが、[[モーリタニア共和国]]内で[[ポリサリオ戦線]]が敷設していた[[地雷]]を踏み、[[ナビゲーター (モータースポーツ)|コドライバー]]が逃げ遅れて焼死する事件が発生した。事前警告で地雷が存在する為、メインピステから外れて走らないよう指示が出ていたのにもかかわらず、違う主催者から指示され、ルートブックにも記載されていたメインピステを外れて走行していたのが原因とされている。
 
[[1999年]]には[[テレビジョン放送局|テレビ局]]の取材担当者らが[[テロリズム|テロ組織]]に襲われた。今日はテロ組織だけでなく[[強盗]]も現れ、ドライバーがその被害・脅迫に遭遇することは少なくない。銃撃を受ける、盗賊に金品を略奪される等、枚挙に暇が無い。通行する集落の住民による投石による事故や負傷も多い。[[シトロエン]]のサポートカミオンのドライバーが何者かによって射殺されたり、[[三菱自動車|ミツビシ]]のサポートカミオンが狙撃を受ける事態すら発生している。
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また、同年[[2月11日]]には[[2009年]]のダカール・ラリーは[[南アメリカ]]の[[アルゼンチン]]と[[チリ]]を舞台に行われると報じられた<ref>「パリダカ代替、来年は南米で」。2008年[[2月12日]]、読売新聞夕刊。2008年2月12日閲覧。</ref>。[[ブエノスアイレス]]が発着点となる。この地が舞台となった理由として、ダカール・ラリーの特徴である砂漠や難コースを持ちながらテロの脅威がないことが挙げられている。
 
[[2009年]]2月、2010年も引き続き南米で開催される事が発表された。長らくトップコンテンダーとして健在だった[[三菱自動車]]が、2009年限りで[[ワークスチーム]]撤退を表明した他、。撤退が噂されていた[[フォルクスワーゲン]]も撤退が噂されは後に参戦継続を表明しおりいるが、パリダカールラリーはワークス主体のレースが継続されるか、初期のプライベーター主体のレースに回帰するか、開催地の問題も含め現在岐路に立たされている。
 
== コース ==