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父は[[後漢]]末の動乱期に漢中の[[張魯]]に仕えた人物である。張魯が曹操に降伏すると、李休も列侯された。
 
若いころに都に遊学し、風雅で才智があると評判されがあった。[[曹爽]]や[[夏侯玄]]らと親しくつきあった。「四聡八達」というグループの一員であったが、軽薄浮華を理由に[[曹叡]](明帝)に官吏を解任された。明帝が亡くなり[[曹芳]](斉王)の補佐として曹爽が政権を担当するようになると起用され、[[洛陽]]県令となる。[[244年]]、曹爽と夏侯玄が蜀征伐を計画すると、李勝もそれに賛同し、征西将軍である夏侯玄の長史となるが、大敗を喫する。そのため、[[司馬懿]]からは快く思われなかった。
 
滎陽太守、[[河南]]尹を歴任していずれも治績を挙げた。河南尹としての仕事ぶりは、前任者の[[劉靖]]が法に厳格であったのに対し、法を緩めることにより、一時的に名声を得た、と評されている。河南尹の職にあって一年後に、凶兆が勃発、まもなく[[荊州]][[刺史]]に任命される。『魏末伝』によると、曹爽に荊州刺史へ就任の報告を兼ねて隠棲した司馬懿の様子を探りに行くよう命じられるが、司馬懿の芝居にまんまと騙されて本物の病人と思い込み、曹爽に司馬懿はもはや再起不能であると報告した。『魏末伝』の真偽は不明だが、[[249年]]、李勝が荊州に赴任しないうちに、司馬懿がクーデターを起こして曹爽らは失脚、後に曹爽と共に謀反をたくらんでいたと李勝も告発され三族皆殺しの刑に処せられた。
 
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