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'''ヨハネス12世'''('''Johannes XII'''、[[937年]] - [[964年]][[5月14日]])は、[[ローマ教皇]](在位:[[955年]] - 964年)。
[[スポレート]]侯公[[アルベリクスーコ2世]]([[932年]] - [[954年]])とヴィエンヌのアルダの子で、本名はオクタヴィアヌス。母方の血縁により[[カール大帝]]の7世代の子孫に当たる。父アルベリクスーコがローマ貴族に誓わせた誓約に基づき、18歳の若さで教皇に即位。しかしその若さで教皇に就任できたのも家柄が良かったからであり、そのためにヨハネス12世は世間知らずであった。そんな人物であるから、教皇になった後、周辺の事情も考えずに無謀な教皇領拡大に乗り出して[[イヴレア]]伯侯[[ベレンガルーリオ2世|ベレンガーリオ]]([[950年]] - [[963年]])と戦って大敗を喫し、逆に攻め込まれる羽目となった。窮したヨハネス12世は、[[東フランク王国]]の[[国王]][[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]に救援を要請し、彼の援軍を[[ローマ]]に迎えることで窮地を脱した。そして、この見返りとして[[962年]][[2月2日]]、オットー1世にローマ皇帝の冠を与えている。これが[[神聖ローマ帝国]]の始まりである。
オットー1世は新たに教皇領を寄進したが、同時に皇帝に忠誠を宣誓してからでなければ教皇職には叙任されないと定めた。オットー1世に反意を抱いたヨハネス12世は今度はイヴレア伯侯ベレンガルーリオと手を結んだが、オットー1世の臣下によって事態が露見。ここに至って教会内部でもヨハネス12世に対して反発、不満を持つ者が立ち上がり、[[963年]]にヨハネス12世はオットー1世によって廃位が宣告され、後任に[[レオ8世 (ローマ教皇)|レオ8世]]が即位した。
オットー1世がローマを発ってすぐにヨハネス12世はローマに帰還、レオ8世を追放して復位を宣言したがまもなく27歳の若さで死去。ヨハネス12世の突然の死について、情事を交わした人妻の夫によって殺されたとローマでは噂になったという。
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