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{{Otheruses|マケドニアの将軍の「ペルディッカス」|他の用法}}
'''ペルディッカス'''([[ギリシア語|:Περδίκας、英]]:Περδίκκας, ラテン文字転記:Perdiccas、?, ? - [[紀元前321年]]または[[紀元前320年]])は[[アレクサンドロス3世]]、[[アレクサンドロス4世]]に仕えた[[マケドニア王国]]の[[将軍]]であり、[[ディアドコイ]]の一人である
 
ペルディッカスはマケドニアの[[貴族]][[オロンテス]]の子で、弟には[[アルケタス (オロンテスの子)|アルケタス]]がいる。[[紀元前335年]]、マケドニアに対して武装蜂起した[[テーバイ|テバイ]]との戦いで彼は[[重装歩兵]]部隊の指揮官として目覚しい働きを示した。アレクサンドロスの東征に際しては重装歩兵部隊を指揮し、数々の会戦を戦った。[[紀元前325年]]の[[マールワー|マラヴァス]]の攻囲においては別働隊を率いた。そして、[[紀元前324年]]に[[ヘファイスティオン]]が病死した際には[[ヘタイロイ]]の指揮官の地位を引き継ぎ、同時に[[千人隊長]]の任に就いた。また、同年[[スサ]]にて開催された集団結婚式でペルディッカスは[[メディア王国|メディア]][[太守]]で[[ペルシア]]貴族の[[アトロパテス]]の娘を娶った。
 
アレクサンドロスの死後に開かれた[[バビロン会議]]で、ペルディッカスは王の遺児でまだ幼かったアレクサンドロス4世の後見人、帝国[[摂政]]となり、帝国の実質的なトップの座にいた。その直後、彼はバビロン会議で自身に対抗しようとした武将[[メレアグロス (将軍)|メレアグロス]]を殺害し、ライバルを減らした。
 
ペルディッカスは自らの勢力の安定化のため、重臣[[アンティパトロス]]との連携を目論み、彼の娘[[ニカイア]]との結婚を申し出たが、ペルディッカスを自分の側に引き入れようと考えたアレクサンドロスの母[[オリュンピアス]]は彼に自分の娘[[クレオパトラ (曖昧さ回避)|クレオパトラ]]との結婚を勧めた。そこでペルディッカスは一旦アンティパトロスの娘と結婚しすぐ離婚してクレオパトラと結婚しようとした。アンティパトロスはそれに怒り、彼に警戒心を抱いていた[[クラテロス]]、[[プトレマイオス1世|プトレマイオス]]らの諸将と共に対ペルディッカス同盟を結び、対決姿勢を見せた。
 
ペルディッカスは小アジアでの戦いはかつて領地を征服するのを助けてやった同盟者の[[カッパドキア]]・[[パフラゴニア]]太守の[[カルディアのエウメネス|エウメネス]]に任せ、自身はプトレマイオスを滅ぼさんと軍勢を率いて[[エジプト]]に向かった。しかし彼はナイル渡河に失敗し、落胆した兵士たちは彼に対して反乱を起こした。その時ペルディッカスは部下の[[ペイトン]]、[[アンティゲネス]]、[[セレウコス1世|セレウコス]]らによって暗殺された。
 
ペルディッカスは小アジアでの戦いを、かつて領地を征服するのを助けてやった同盟者の[[カッパドキア]]・[[パフラゴニア]]太守[[カルディアのエウメネス|エウメネス]]に任せ、自身はプトレマイオスを滅ぼさんとすべく軍勢を率いて[[エジプト]]に向かった。しかし彼は[[ナイル川|ナイル]]渡河に失敗し、落胆した兵士たちは彼対しよって反乱起こした。その時り、ペルディッカスは部下の[[ペイトン]]、[[アンティゲネス]]、[[セレウコス1世|セレウコス]]らによって暗殺された。
 
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