「昌徳宮」の版間の差分

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== 歴史 ==
[[1405年]]に、[[景福宮]]の[[離宮]]として創建され、李氏朝鮮第9代[[成宗 (朝鮮王)|成宗]]が正宮として使用している。[[文禄の役]]([[1592年]])では、日本の軍勢が首都に迫る中、国王の[[宣祖]]一行が[[漢城]]から逃亡すると、治安が乱れて豊臣秀吉軍の入城を前に朝鮮の民衆によって略奪と放火の対象となり[[景福宮]]や[[昌慶宮]]、付属する庭園(秘苑)などと共に焼失した<ref>朝鮮王朝の[[正史]]『[[朝鮮王朝実録]](宣祖修正実録)』には民衆によって略奪・放火されたと明記されており[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wnb_12504014_028]、[[李廷馥]]の『[[四留斎集]]』や[[李恒福]]の『[[白沙集]]』にもその時の様子が記されている。因みに日本側記録『大徳寺文書』では国王が内裏に放火して逃亡したとある。また小西行長の一番隊に属した松浦鎮信の家臣吉野甚五左衛門の覚書には入城直前の「五月二日の夕暮れに都の方を望むと放火の煙が立ち上っている」「宮殿楼閣数々に、内裏々々に火を掛けて、上下万民ことごとく唐国さして落ちにける」と記録してる。いずれにせよ日韓双方の記録が秀吉軍の入城を前に消失したとしている。したがって一部に存在する日本の[[小西行長]]勢によって放火されたとする主張は誤りである。</ref>
王朝末期の[[1868年]]に景福宮<ref>景福宮は正宮として再建されるまで約270年以上にわたり放置されたままであった</ref>が再建されると、昌徳宮は再び離宮として使用された。[[1907年]]に[[純宗 (朝鮮王)|純宗]]が大韓帝国の皇帝に即位すると宮殿として使用され、[[1910年]]の[[韓国併合|日韓併合]]後も李王となった純宗の住まいとなった。その後[[朝鮮総督府]]により改築されている。