「ストーン・コールド・スティーブ・オースチン」の版間の差分

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[[USWA]]では、そのクリス・アダムスとの抗争をしていた。後に実生活でクリス・アダムスの妻ジニー・クラーク(レディ・ブロッサム)と結婚している。当時USWAにドクター・デスのニックネームで知られる同名のレスラー[[スティーブ・ウィリアムス]]がいたために、リングネームをテキサス州都の[[オースティン]]に因み、アメリカの人気テレビドラマシリーズ『[[600万ドルの男]]』の主人公の名前でもあった'''スティーブ・オースチン'''に変更した。しかしレスラーとしてなかなか成功しなかったためこれまでの[[ベビーフェイス (プロレス)|ベビーフェイス]]から[[ヒール (プロレス)|ヒール]]に転向し、同時に'''“スタニング”スティーブ・オースチン'''というリングネームに再度変更した。
 
その後の活躍が認められ[[1991年]]に[[ダスティ・ローデス]]にスカウトされて[[WCW]]と契約。[[ブライアン・ピルマン]]とのタッグ「'''ハリウッド・ブロンズ'''」としてWCWタッグ王座を獲得。[[1992年]]に[[新日本プロレス]]にも来日し、[[G1 CLIMAX]]に参戦。2回戦で[[武藤敬司]]に敗れる。この時、解説席にいた[[マサ斎藤]]がオースチンの技術を高く評価しており、「彼はプロレスが上手い。絶対にトップに立てますよ」と絶賛していた。同年9月にも来日し、[[蝶野正洋]]の持つ[[NWA世界ヘビー級王座|NWA王座]]にも挑戦した。なお、この試合で蝶野の首を破壊している。ピルマンとのタッグ解散後はシングルプレイヤーとしてもUS王座、TV王座も獲得し活躍したが、[[1995年]]の日本ツアー中の新日本プロレスでの試合で[[上腕三頭筋]]を負傷し故障するとWCWの副社長[[エリック・ビショフ]]は早々とオースチンを解雇。その後はWCW時代のマネージャーでもあった[[ポール・ヘイマン]]に誘われ[[ECW]]に3か月間スポット参戦し、WCW時代のホーガンやビショフへの鬱憤を爆発させて存在感を発揮、持ち前の技術で[[ECW王座]]戦線にも絡む活躍を見せた。トレードマークのスキンヘッドは実はこの時代に始まっている。
 
=== WWF入団後 ===