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[[摂関家]]とのつながりが強かった大和国の興福寺は[[鎌倉時代]]に入ると、南都[[奈良]]やがて大和一国の支配権を得るようになった。本来同寺の衆徒は[[太政官符]]によって20名と定められ、[[別当]]や[[三綱]]の補佐にあたることになっていた(官符衆徒)が、次第に[[一乗院]]・[[大乗院]]などといった有力な[[門跡]]が自己の発言力の増大のために国内の武士や名主などを[[御家人]]などと称して自己の衆徒に組み入れ、自院の学侶に率いさせて寺内や奈良の町の[[検断]]などに従事させた。また、[[神仏習合]]によって興福寺と一体化していた[[春日社]]の[[神人]]に組み入れられて同様の役割を果たすこともあり、こうした春日社神人を「'''国民'''」と呼んだ。
代表的な大和の衆徒として一乗院傘下の[[筒井氏]]・[[越智氏]]、大乗院傘下の[[十市氏]]・[[古市氏]]などがいる。[[南北朝時代_(日本)|南北朝期]]以後、これらの衆徒は自らの支配地域を獲得して[[領主]]化し、興福寺の権威を背景に更なる勢力拡大を図った。[[室町幕府]]第6代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義教]]は、大和国内に幕府の支配権を確立するために両門跡の人事に介入した。しかし、
戦国時代には[[筒井順昭]]と[[十市遠忠]]が[[畠山氏]]の重臣[[木沢長政]]が[[河内国]]で討死するとそれに乗じて勢力を拡大した。一時国内の大半を平定して[[戦国大名]]化を進めるが、順昭が急死して幼少の[[筒井順慶|順慶]]が後を継ぐと、越智氏
== 関連項目 ==
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