「摩阿姫」の版間の差分

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天正13年([[1585年]])に秀吉の側室になり「加賀殿」と呼ばれるようになる。
しかし、彼女は体が弱く、実家の前田邸で過ごす事が多かったという。
[[慶長]]3年([[1598年]])の3月に秀吉が催した醍醐の花見に、秀吉の正室や他の側室達と共に出席する。このとき、五番目の輿に乗っていたとされる。
その時に摩阿が詠んだ和歌。「あかず見む幾春ごとに咲きそふる 深雪の山の花のさかりを」
この後、彼女は病気を理由に、秀吉の側室を辞した。