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'''藤原 頼嗣'''(ふじわら の よりつぐ、[[延応]]元年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]([[1239年]][[12月17日]]) - [[康元]]元年[[9月25日 (旧暦)|9月25日]]([[1256年]][[10月14日]]))は、[[鎌倉幕府]]5代[[征夷大将軍|将軍]]である。[[五摂家]]のひとつ、[[九条家]]の出身の[[摂家将軍]]で'''九条 頼嗣'''(くじょう よりつぐ)とも呼ばれる。父は鎌倉幕府4代将軍[[藤原頼経|藤原(九条)頼経]]。[[官位]]は[[従三位]]・[[近衛府|左近衛中将]]。
 
== 経歴 ==
[[藤原頼経|鎌倉幕府将軍、藤原(九条)頼経]]と、[[藤原親能 (権中納言)|藤原親能]]の娘・大宮殿の子として[[鎌倉]]で生まれる。
 
[[寛元]]2年([[1244年]])、当時の[[執権]][[北条経時]]を[[烏帽子親]]として元服、父の藤原(九条)頼経の譲りにより、わずか6歳で将軍に就任した。翌寛元3年([[1245年]])、7歳で16歳の北条経時の妹[[檜皮姫]]を正室として迎える(檜皮姫は[[宝治]]元年([[1247年]])死去)。寛元4年([[1246年]])7月、[[宮騒動]]により父頼経が京へ追放され、翌[[宝治]]元年([[1247年]])6月の[[宝治合戦]]で将軍家を擁する[[三浦氏]]らが滅亡した後も、頼嗣は将軍として鎌倉に留まった。しかし[[建長]]3年([[1251年]])、了行法師らの謀叛事件に頼経が関係したとして、幕府は[[後嵯峨上皇]]の皇子[[宗尊親王]]を新将軍とすることに決定。翌年、頼嗣は14歳で将軍職を解任され、母大宮殿とともに京へ追放された。4年後の[[康元]]元年([[1256年]])8月に頼経が死去し、続いて頼嗣も9月25日、[[赤斑瘡]]により死去した。享年18。