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後漢の[[霊帝 (漢)|霊帝]]の時代、[[西園八校尉]]の一人として[[左軍校尉]]を務めた。霊帝の死後は[[廃帝弁]]に仕えたが、[[董卓]]の専横が始まると中央から逃れて[[袁紹]]配下の武将となる。
 
[[興平 (漢)|興平]]2年([[195年]])、袁紹の監軍(袁紹軍の総司令官的地位)[[沮授]]が、[[献帝]]を迎え入れるよう袁紹に進言したが、淳于瓊は[[郭図]]と共にこれに反対し<ref><span style="font-size:90%;">ただし郭図は、『三国志』魏書袁紹伝本文によると、献帝受入を進言している。</span></ref>、結局袁紹は献帝の受入を行わなかった。淳于瓊が反対した理由は、献帝が董卓により擁立された皇帝であることなどが考えられる。
 
[[建安 (漢)|建安]]4年([[199年]])、郭図の讒言により、沮授の監軍の権限・地位が三都督に三分割されると、淳于瓊は沮授・郭図と共に[[都督]]に任命された。