「山田奉行」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
雪柳 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
8行目:
御三家のひとつ[[紀州徳川家]]領と接していることからしばしば係争が発生し、将軍吉宗時代に[[江戸町奉行]]として活躍する[[大岡忠相|大岡越前守忠相]]が務めたこともあり、奉行時代の忠相の働きに感心した[[紀州藩]]主時代の[[徳川吉宗]]が、のちに抜擢したという伝説がある。
 
慶長8年、幕府は伊勢大神宮神領地に「山田奉行所」を置いた。外宮・内宮両大神宮の警固はもちろん、[[伊勢湾]]・南海での異国不審船の取締りや伊勢志摩神領以外も支配したが、「日光御奉行」と同等同格の「山田御奉行」の最重要任務は「二十一年目御遷宮奉行」を取り仕切る任務であった。そもそも「御遷宮奉行」は伊勢大神宮の[[祭主]]が兼任していたが、「影流始祖[[愛洲久忠]]」の父であろう「[[愛洲忠行|愛洲伊予守忠行]]」が武家として初めて大神宮[[神領奉行]]職に[[文明 (日本)|文明]]年間任じられた。([[神領奉行]]所は[[岩出祭主館跡]]と思われる。) 江戸幕府は「愛洲伊予守忠行」の先蹤を引継ぎ、以来明治御維新まで一度も途切れず、[[源頼朝]]以上の「敬神敬祖」の範を示し[[神宮式年遷宮|御遷宮]]を行ってきた。御遷宮に掛かる費用は[[平成]]15年([[2003年]])に行われた第61回式年遷宮で約327億円と言われており、いかに歴代山田奉行が伊勢大神宮に奉仕したかがわかる。
 
{{quotation|
寛永十八年御奉行小林村に御居住したまへる以前より、孔雀丸・虎丸と謂う御船あり、享保十三年戊申五月はじめ御奉行保科淡路君如何なる故にや、虎丸の御船を大湊の沖に泛かしめ給ふ。尤も近来稀なることなり。孔雀丸は汚損せしと云へり、今御船の御公用なければ其の水主同心七十五人は常に御役所付の諸役を勤む。|御普請役御組頭橋本市郎左衛門重永『享保庚戌備忘録』}}
 
寛永16年(1639年)9月に就任した第7代花房志摩守幸次奉行以来、[[伊勢神宮]]神領前山と[[和歌山藩|紀州]]領佐八(そうち)との境域争いは、第十代桑山丹後守(後改下野守)貞政奉行が寛文7年(1667年)11月15日[[紀州藩]]に通達し、支配組頭橋本市郎左衛門浄安を同伴し、紀州藩田丸表役人神前半九郎正伴と共に臨検し、山田三方年寄立会の上、その境域を定め、山頂に三坪塚を設けている。寛文10年(1670年)2月10日幕府より正式にその[[朱印状]]が下付されたと「御奉行控」に記載されている。[[山田三方]]会合の記録でも、御奉行交替毎に差し出す「山田古法式目」に「前山之子細申上覚」で第十代桑山下野守貞政奉行が、紀州藩に申し入れ寛文7年11月に解決した旨が記載されており、明らかに享保以降、山田三方の史料、[[大岡忠相]]の業績とした「正雑聴書牒」は面白おかしく[[歌舞伎]]の題材を狙ったような作り話であることが解る。
(御普請役御組頭子孫 [[橋本石洲]]著 『伊勢山田奉行沿革史』に依る)