「東京大学 (1877-1886)」の版間の差分

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教官([[教授]]・助教(のち[[助教授]])・講師)は洋学派で占められ、特に'''上席の教官の大半は欧米出身の[[御雇い外国人|外国人教師]]で彼らの授業は当然欧米語で行われた'''。しかし法学部の日本法学関係科目、文学部の「和漢古典講習科」などについては日本人教官が担当した。外国人教師の身分は上記の教授・助教授・講師以外の「教師」とされ、しばしば大学予算を脅かす程度の高額の給与が与えられていたが、先述の諮詢会に参加することは許されず大学の管理運営に関与できなかった。また出身国の点から見ると、[[1881年]]以降は国のドイツ学重視方針もあって次第に英米人教師に代わりドイツ人教師が増加しており、さらに外国人教師の全体数が減少に向かっていった。
 
(旧)東京大学なお法学部は、成立に至るまでにフランス語を学ぶ者で、特に成績優秀なものは[[司法省法学校]]へ転学したり、フランスに留学するなどして流出し、一部の学科を除き教授言語を英語に統一するなどしたことからイギリス法系の色を強くするようになり、このことが後に[[民法典論争]]を引き起こすことになった
 
=== 大学予備門 ===
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=== 帝国大学への移行 ===
1886年3月1日の[[帝国大学令]]制定により、東京大学は[[工部大学校]]を併合すると同時に、5[[分科大学]](「学部」の後身)および[[大学院]]をもつ全国唯一の「'''[[東京大学|帝国大学]]'''」に改編(その後[[1897年]][[京都大学|京都帝国大学]]の設置に伴い'''「東京帝国大学」'''と改称)され、この際、医学・法学の「別課」および諮詢会は廃止、予備門を[[高等中学校|第一高等中学校]]として分離独立(のち[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]と改称)させるなど大幅な改革がなされた。ここに[[東京大学]]の初期形態としての旧「東京大学」の時代は終焉し、続く「(東京)帝国大学」の時代へと引き継がれることになった。なお、「(東京)帝国大学」時代長らくの間、創立記念日は帝国大学令公布日である1986年3月1日とされた。
 
その後、東京帝国大学は、[[1886年]](明治19年)[[工部大学校]]との統合により{{和暦|1947}}10月、現名称である「'''[[帝国東京大学]]'''と変遷」(ただこの時点では[[1897年]](明治30年) [[京都大学|京都帝国旧制大学]]の設置伴い'''東京帝国大学'''と改称ついで[[19471949年]] (昭和22年)に現在の'''東京大学'''([[5月31日]]、[[新制大学|新制]]へと移行、現在ている
 
=== 年表 ===