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Takashieikou (会話 | 投稿記録)
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当時、他のプロスポーツには公傷制度がなかったことから適用基準も厳しく、「土俵で立ち上がれたら公傷にはしない」「古傷の再発は公傷にしない」と言われていた。[[1979年|昭和54年]]5月場所、前場所を肩の[[脱臼]]で休場した[[十両]]・[[千代の富士貢|千代の富士]](現[[九重 (相撲)|九重]])が、公傷の認定がされなかったために場所途中(3日目)から出場した。だが、これをきっかけに、千代の富士は相撲ぶりを出足を重視するものに変え、それが横綱昇進につながったと言われている。また、当初は[[大関]]だけは公傷制度の適用対象外であった。しかし、徐々に適用範囲が広がり、[[1983年|昭和58年]]からは大関も公傷制度の適用対象となった(適用第1号は[[1983年|昭和58年]]9月場所で負傷した[[朝潮太郎 (4代)|朝潮]](現[[高砂 (相撲)|高砂]])であった)。さらに[[平成]]に入ると「全治2ヶ月以上なら公傷」と言われるまでになり(「やたらと全治2ヶ月の診断書が出て来る」ともいわれた)、場所中の休場力士の増加につながったため、[[2003年|平成15年]]11月場所を最後に廃止された。幕内で初適用された力士は[[1973年|昭和48年]]5月場所の[[丸山孝彦|丸山]]、最後に適用されたのは[[琴ノ若晴將|琴ノ若]](現[[佐渡ヶ嶽]])。制度不適用第1号は当時十両の[[若天狼啓介|若天狼]]である。廃止前に、制度を維持したまま運用の改善でしのごうとしたこともあったが、大関[[武双山正士|武双山]](現[[藤島]])が公傷を認められずに[[角番]]になった場所で強行出場して勝ち越してしまったこと、武双山の師匠でもある[[三重ノ海剛司|武蔵川]]理事(現理事長)が「なぜ武双山の公傷を認めなかったのか」と理事会で審判部を追及したことから、「必要のない公傷を申請している力士がいる」「認めたり認めなかったりしたらそれぞれの力士の師匠に突っ込まれてどうにもならない」という認識ができ、廃止に至った。
 
なお、公傷制度の廃止の際、救済措置として幕内の定員が40人から42人に、十両の定員が26人から28人に、それぞれ増員された。