「佐藤栄作」の版間の差分

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このように佐藤にとって政敵不在の中、派閥横断的に将来の総理総裁候補、特に[[田中角栄]]、[[福田赳夫]]、[[三木武夫]]、[[大平正芳]]、[[中曽根康弘]]、[[鈴木善幸]]、[[宮澤喜一|宮沢喜一]]、[[竹下登]]たちを政府・党の要職に就けて競わせ、育て、「'''人事の佐藤'''」と呼ばれる人心掌握術<ref>『大平正芳』 126頁。</ref>で政権の求心力を維持し続けた。また、当選回数による年功序列や政治家の世襲といったその後の自民党を特徴づけるシステムが確立したのも佐藤政権である。また[[国対政治]]と揶揄された金銭や足して二で割ると評された妥協案等の野党懐柔もこの頃に定着したとされ、それまで政権交代に意欲を見せていた[[日本社会党]]の党勢を削ぐ上でも大きな役割を果たした。
 
こうして、好調な経済と安定した党内基盤を背景に、佐藤時代は「[[黒い霧事件 (政界)|黒い霧事件]]」のような自民党の一大[[不祥事|スキャンダル]]直後の[[第31回衆議院議員総選挙]]ですら議席を大きくは落とさず、選挙では[[安定多数]]を維持し続け、自民党の黄金時代を体現した。他方で、当初、佐藤が意図していたような高度成長の是正や社会資本整備といった課題は先送りされた面は否めず、沖縄問題にエネルギーを集中せざるを得なかった任期後半にかけては、公害問題などで後手に回り、苦慮することが多かった。議会運営では[[田中角栄]]幹事長に[[園田直]]国対委員長等に[[強行採決]]を自ら指示する事があったほど強引な議会運営を行い[[日韓基本条約]]、[[大学措置法]]、[[沖縄返還協定]]等与野党の対立が激しい懸案を、[[牛歩戦術]]や[[フェリーバスター]]で抵抗する野党に対し徹夜や抜き打ち等で強引に採決し時にはこれに抵抗するに[[衆院議長]]を更迭する等の強権も発動した。
 
[[1970年]](昭和45年)の自民党総裁四選については、自民党内部に政権の長期化を懸念し、[[勇退]]による福田赳夫への[[禅譲]]論の声もあった。しかし、次期総裁を狙いつつ佐藤派内の掌握のため時間を稼ぎたい田中と、旧岸派分裂時に“福田嫌い”から袂を分かった自民党副総裁・[[川島正次郎]]の思惑などが合致し、川島・橋本登美三郎らは、総理引退を考えていた佐藤に四選すべきだと持ちかけ、強力に佐藤四選運動を展開した。そして、佐藤は「[[沖縄返還]]の筋道をつける事を[[大義名分]]に、[[三木武夫]]を破り現在まで唯一・最多の自民党総裁四選を果たした。四選直後の[[党大会]]において[[浜田幸一]]が「昨日まで我々は佐藤政権を支持してきた、しかし今日からは違う。」と発言したことが語り草になっている。