「ヴワディスワフ3世 (ポーランド王)」の版間の差分

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「キリスト教世界の擁護者」を始めとする様々な称号が、神への十字軍の戦勝誓願の祝福とともに、教皇特使[[ジュリアーノ・チェザリーニ]]によってヴワディスワフの許へともたらされた。ただし、この使節はヴワディスワフに今後2年にわたるオスマン帝国への十字軍続行を約束させる目的があった。[[オラデア]]において1443年に結ばれた10年の休戦条約については、異教徒は信用できないので戦いを続行すべきだという主張を国王は受け入れた。オスマン帝国側には圧倒的な軍事的優位があったが、ヴワディスワフはオスマン帝国がヨーロッパ全土に及ぼしうる力を持っていることを認識できなかった。それゆえ、1444年11月10日の[[ヴァルナの戦い]]が、彼の最後の戦いになるとは予想していなかった。ヴワディスワフは[[スルタン]]直属の親衛隊[[イェニチェリ]]の突撃を受けて戦死した。
 
ヴワディスワフ3世は未婚であり、子供も無いまま死去した([[ヤン・ドウゴシュ]]の[[年代記]]の記述から、現代では[[同性愛者]]だったのではないかとする説まである)。ハンガリー王位はかつてのライバルであったエリーザベトの遺児[[ラディスラウス・ポストゥムス]]が幼くして継承し、ポーランド王位は3年の空位期間を経て弟[[カジミェシュ4世 (ポーランド王)|カジミェシュ4世]]が継承した。後に1526年、カジミェシュ4世の孫の一人[[ラヨシュ2世]]も[[モハーチの戦い]]でヴワディスワフ3世と同じ運命をたどることとなった。
 
== 伝説 ==