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'''戴震'''(たい・しん、[[1724年]] - [[1777年]])は中国[[清|清代]]朝中国の学者。清代考証学の代表者。
 
== 略伝 ==
字は慎修、東原。[[安徽省]][[休寧県|休寧]]の出身で、家が貧しいため塾を開いて自活した。30歳の時には食べ物にも事欠いて、麵舗(うどんや)と契約し麺の屑を毎日分けてもらうことにしたほどであった。しばしば進士の試験を受けたが合格せず、各地を遊歴した。[[程瑤田]]や[[金榜]]とともに[[江永]]に師事し、江蘇の学者・[[恵棟]]には先輩としての礼をとった。[[1757年]]に敵を避けて北京に赴き、[[紀昀]]・[[王鳴盛]]・[[銭大昕]]に認められ、一躍有名になった。[[秦蕙田]]が『五礼通考』を編纂したときには戴震を招いてその屋敷で朝晩講義させた。浙東の金華書院で学問を講じたこともある。[[1774年]]に四庫全書館が開かれたときに、[[挙人]]の資格で編纂官になるという異例の抜擢を受け、[[進士]]出身を賜り[[庶吉士]]となった。過労のため在職中に没する。
 
== 方法と学統、哲学 ==