「大和魂」の版間の差分

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'''大和魂'''(やまと-だましい)は、外来の学問・知識を日本に採り入れる際に必要な判断力・能力、または情緒([[もののあはれ]])を理解する心などを指す用語・概念。右記に示すとおり、性格・能力・品性もしくはそうした性質そのものを指す極めて広い概念・用語である。
 
[[平安時代]]中期ごろから「才」「漢才」と対比的に使われはじめ、上記のような諸内容を包含するきわめてひろい概念であった。又、[[江戸時代]]中期以降の[[国学]]の流れのなかで、「[[漢意]]」と対比されることが多くなり、「日本古来から伝統的に伝わる固有の精神」「万邦無比の優れた日本の精神性」「日本国家のために尽くす清い心」といった誤用がむしろ主流とう様っていった。この傾向は[[明治時代]]以降、[[ナショナリズム]]や[[民族主義]]の興隆と概念ともに過剰な意味が付与さ捉われるようになり、[[第二次世界大戦]]期には軍国主義的な色彩を強く帯び、現状を打破し突撃精神を鼓舞する意味で使われることが主となった。そのため日本の敗戦後は、日本の文化・思想界の主潮流から追いやられている。
 
== 沿革 ==
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明治時代に入り、西洋の知識・学問・文化が一気に流入するようになると、[[岡倉天心]]らによって、それらを日本流に摂取すべきという主張が現れ、大和魂とともに'''[[和魂洋才]]'''という語が用いられるようになった。この語は、和魂漢才のもじりであり、大和魂の本来的な意味を含んでいたが、一方では西洋の知識・文化を必要以上に摂取する事への抵抗感も併せもっていた。
 
その後、大正・昭和と下るに連れて、日本の[[ナショナリズム]]・[[民族主義]]が強まっていくと、大和魂の語には日本への強い意識が込めらるようになった。国家への犠牲的精神とともに他国への排外的な姿勢を含んだ語として、用いられたのであり、大和魂が元々持っていた「外来の知識を摂取して、柔軟に応用する」という意味と正反対の受け止められ方をされていた。こうして、大和魂の本来の姿を見失った日本は、[[第二次世界大戦]]で亡国寸前の敗北を喫することとなった。敗戦後、大和魂の語は[[軍国主義]]に結びつくものとして忌避される傾向にあり、また、本来的な意味に着目されることも少なくなった。
 
== 和歌 ==