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{{Battlebox
| battle_name=ベルリンの戦い
| campaign=ベルリン攻防独ソ
|colour_scheme=background:#ffccaa
| image=[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-R77767, Berlin, Rotarmisten Unter den Linden.jpg|300px|]]
| caption= 戦闘終結後、[[ウンター・デン・リンデン]]でソ連旗を掲げる[[赤軍|ソ連軍]]の兵士達
| conflict=[[第二次世界大戦]]([[独ソ戦]]/[[大祖国戦争]])
| date=1945年4月16日 - 1945年5月2日
| place=[[ベルリン]]、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]
| result=ソビエト赤軍の勝利
| combatant1='''{{flag|Nazi Germany|name=ドイツ}}'''
| combatant2='''{{flagicon|Soviet Union|1923}} [[ソビエト連邦|ソビエト連邦]]'''<br /> {{Flagicon|ポーランド}} [[ポーランド]]
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| casualties2=戦死・行方不明 81,000<br />戦傷 280,000<br />装甲車輌 1,997<br />大砲 2,108<br />航空機 917<br />
|}}
'''ベルリンの戦い'''(ベルリンのたたかい)とは、[[第二次世界大戦]]末期、[[1945年]][[4月16日]]のソビエト赤軍の[[ゼーロウ高地]]攻撃開始から、[[総統地下壕]]におけるヒトラーの自殺、[[ドイツ国会議事堂|国会議事堂]]の陥落、[[5月2日]]の[[ドイツ軍]]のベルリン防衛軍司令官[[ヘルムート・ヴァイトリング]]の降伏に至るまでベルリン周辺で展開されたソ連軍とドイツ軍の戦闘のことである。
 
== 戦いの背景 ==
1944年[[6月22日]]に開始された[[バグラチオン作戦]]と名付けられたソビエト赤軍の夏季大攻勢の結果、ドイツ軍はソ連領からほぼ駆逐された。1945年1月20日、ソビエト赤軍は東プロイセンに侵入、初めてドイツ領内へ進撃した。参謀総長[[ハインツ・グデーリアン]]はラジオ放送を通じて「赤軍本土侵攻」を報じ国民の注意を喚起、ヒトラーにベルリン防衛の強化を進言するが、ヒトラーは[[1月23日]]の会議で[[オーストリア]]とドイツの石油の80%を供給する[[ハンガリー]]の防衛を優先、ベルリン防衛予定部隊から[[第6SS装甲軍]]を抽出してハンガリーに派遣することを決定した。しかし、この部隊はその後ハンガリーで壊滅した。
 
[[3月28日]]、ヒトラーはキュストリン橋頭堡の失陥をめぐって対立した[[ハインツ・グデーリアン]]を参謀総長から解任し、後任に[[ハンス・クレープス]]を任命した。首都ベルリンの運命はオーデル河戦線の[[ヴァイクセル軍集団]]隷下の[[第3装甲軍]]と[[第9軍 (ドイツ軍)|第9軍]]、中央軍集団隷下の[[第4装甲軍]]に委ねられた。しかし予備兵力は薄く、書類上は師団でも実質は大隊規模という部隊や、[[国民擲弾兵]]や[[武装親衛隊|武装SS]]の外国人義勇兵など、急場の部隊で対応しなければならなかった。また、その急増部隊は末端兵士だけでなく、指揮官も忠誠心の強さのみで取り立てられたものが多く、実質的な指揮官は叩き上げの軍人である[[ヘルムート・ヴァイトリング]]砲兵大将や[[ヴィルヘルム・モーンケ]][[親衛隊少将|SS少将]]らにゆだねられた。
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{{main|オーデル・ナイセの戦い}}
{{main|ゼーロウ高地の戦い}}
1945年4月16日、ソビエト赤軍はベルリン占領を目的とするベルリン作戦を発動した。作戦は、午前5時、[[オーデル川|オーデル河]]からゲオルギー・ジューコフ[[元帥]]率いる第1白ロシア方面軍の30分間にわたる猛砲撃で開始、続いてドイツ軍守備兵の目を晦ませるため140の[[サーチライト]]を照射し、渡河攻撃が行われた。<ref>作戦の詳細は、ゲ・カ・ジューコフ『ジューコフ元帥回想録 革命★大戦★平和』清川勇吉・相場正三久・大沢正 共訳、[[朝日新聞社]]、pp.497-512を参照。</ref>しかし、この照射は、ドイツ軍の目を晦ますことが出来ず、逆にドイツ軍砲手のため、ソビエト赤軍を照らし出してしまった。又、[[ヴァイクセル軍集団]]の司令官[[ゴットハルト・ハインリツィ]][[上級大将]]の命令により、前日、第1線陣地から第2線陣地にドイツ軍守備隊は後退していたため、猛砲撃の効果も無かった。このためオーデル河を渡河したソビエト赤軍は、[[ゼーロウ高地]]で[[テオドーア・ブッセ]][[大将]]率いる[[第9軍 (ドイツ軍)|ドイツ第9軍]]の頑強な抵抗にあい、攻撃は頓挫した。<ref>[[コーネリアス・ライアン]]『ヒトラー最後の戦闘 [下]』木村忠雄 訳、早川書房<[[ハヤカワ文庫]]>、pp.92-95,p.104。</ref>一方、イワン・コーネフ元帥率いる第1ウクライナ方面軍も、午前6時、[[ナイセ川|ナイセ河]]から攻撃を開始し、砲撃と[[煙幕]]の援護を受け渡河を行った。午前8時35分、133ヶ所の渡河点を確保したコーネフは、[[第3親衛戦車軍]]([[:en:3rd Guards Tank Army (Soviet Union)|3rd Guards Tank Army]])に命令を送り、南方からベルリンに侵攻する準備を指示した。<ref>コーネリアス・ライアン『ヒトラー最後の戦闘 [下]』木村忠雄 訳、早川書房<ハヤカワ文庫>、pp.95-100。</ref>
 
4月17日、ジューコフはゼーロウ高地のドイツ軍防衛陣地を破り、18日早朝までに高地を占領し、[[ミュンヘベルク]] ([[:de:Müncheberg|enMüncheberg]]) へ向け[[第8親衛軍]]([[:en:8th Guards Army (Soviet Union)|8th Guards Army]])と[[第1親衛戦車軍]]([[:en:1st Guards Tank Army (Soviet Union)|1st Guards Tank Army]])を進めた。しかし、[[ドイツ空軍]]の支援を受けたミュンヘベルク装甲師団<ref group="注釈">1945年3月5日に編成が発令された、クンマースドルフ戦車大隊1個からなる装甲師団。同師団は、1945年初頭、編成途中のまま[[ヴァイクセル軍集団]]に編入、ゼーロウ高地で戦い、その後、ベルリン市街戦に加わる。師団の最後の車輌は5月1日に撃破され、翌日、ソ連軍に降伏した(マクシム・コロミーエツ『1945年のドイツ国防軍戦車部隊』、小松徳仁 訳・高橋慶史 監修、大日本絵画、pp.78-79)。</ref>が、これ等のソビエト赤軍を叩き、大損害を与えた。だが、19日にはドイツ第9軍の戦線は突破され、第CI軍団は北へ、[[第LVI装甲軍団]]([[:en:LVI Panzer Corps|enLVI Panzer Corps]])はベルリンに、SS第IX装甲軍団とSS第V山岳軍団、フランクフルト・アン・デア・オーデル守備隊はブッセ直接指揮のもと、南へ後退した。<ref>ピーター・アンティル『<small>世界の戦場イラストレイテッド1 </small> ベルリンの戦い 1945』三貴雅智 訳、大日本絵画、p.53。</ref>
 
== ベルリンからの脱出 ==
=== ナチス高官のベルリン脱出 ===
4月20日、ヒトラーの誕生日を祝うために、軍高官、およびナチス高官が[[総統官邸]]に集まった。この日開催された軍事会議で、[[アメリカ軍]]と[[赤軍|ビエト赤]]が[[エルベ川|エルベ河]]で合流した場合に備え、ドイツ北部を[[カール・デーニッツ]]元帥が指揮し、南部はおそらく[[アルベルト・ケッセルリンク]]元帥が指揮することとなった。又、各種政府機関も即時ベルリンを退去することが決まった。会議が終わると、政府の大部分はベルリンを立ち退き、[[ヘルマン・ゲーリング]]や[[エーリヒ・レーダー]]等も立ち去っていった。<ref name="Ryan-1">コーネリアス・ライアン『ヒトラー最後の戦闘 [下]』木村忠雄 訳、早川書房<ハヤカワ文庫>、pp.157-161。</ref>
 
一方、ベルリン防衛司令官[[ヘルムート・ライマン]][[中将]]の事務室には、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス党]]の役員が口実を設け、首都立ち退きの許可証を求め集まってきた。ベルリン防衛責任者の[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]は、武器を持てる者は一人もベルリンを離れてはならないと布告していたが、ベルリン防衛司令部は、彼等に2000枚以上の許可証を発行した。<ref name="Ryan-1" />
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4月20日、コーネフは、さしたる抵抗を受けることも無く、バルートを陥落させドイツ[[陸軍総司令部]]のあるツオッセンに達しようとしていた。一方ジューコフは、ドイツ第LVI装甲軍団の抵抗もあり、思うように進撃できていなかったが、21日には、第1機械化軍団がベルリン郊外のヴァイセンゼーに突入し、ベルリン中心部へ向け重砲による砲撃を始めた。翌22日、第3親衛戦車軍と[[第4親衛戦車軍]]がテルトウ運河に到達し、23日には、ベルリン郊外市街地へ突入を始める。<ref>ピーター・アンティル『<small>世界の戦場イラストレイテッド1 </small> ベルリンの戦い 1945』三貴雅智 訳、大日本絵画、pp.40-48,p.55。</ref>
 
翌24日、第LVI装甲軍団の司令官ヘルムート・ヴァイトリング大将が急遽ベルリン防衛軍司令官に任ぜられ<ref>コーネリアス・ライアン『ヒトラー最後の戦闘 [下]』木村忠雄 訳、早川書房<ハヤカワ文庫>、pp.209-217。</ref><ref group="注釈">ヴァイトリングが、ベルリン防衛軍司令官の任命されたのは24日であったが、前日の4月23日よりベルリン東地区と南東地区の指揮を担当していた。(H・エーベルレ『ヒトラー・コード』高木玲 訳、講談社、2006年、ISBN 4-06-213266-4、p.396)。</ref>、率いる残余部隊をベルリン市街の各所に配置した。政府機関に近い[[ベルリン中央駅|アンハルター駅]]付近に[[第11SS義勇装甲擲弾兵師団|第11SS義勇装甲擲弾兵師団 ノルトラント]]、総統官邸付近はヴィルヘルム・モーンケSS少将が率いる[[武装親衛隊]]、ヴィスマースドルフ付近にはミュンヘベルク装甲師団、ヴァンゼー、ポツダム、グリューネヴァルト、ハーレンゼー方面には第20装甲擲弾兵師団、フリードリヒ・シュトラーセ駅付近に第9降下猟兵師団が配置、第18装甲擲弾兵師団が予備とされた。しかし、どの師団も定数を下回る寄せ集めであり、50万人近いソ連軍の前に包囲網は狭まっていった。
 
4月25日、コーネフの第4親衛戦車軍は[[ポツダム]]郊外へ達し、ベルリンは包囲された。<ref>ピーター・アンティル『<small>世界の戦場イラストレイテッド1 </small> ベルリンの戦い 1945』三貴雅智 訳、大日本絵画、p.55,p.56。</ref>
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[[Image:GermanPOW19452.jpg|thumb|250px|防衛の為に徴兵された少年兵]]
 
4月初頭のベルリンではソビエト赤軍がいつ攻め込んでくるか解らぬ状況で、市内は熱射病にとりつかれたような恐怖と絶望に包まれていた。[[ナチ党]]員は降伏すれば処刑されるのは確実であったため、狂信的な決意をもって1人でも多くのソビエト赤将兵を道連れにする事を考えていた。ヒトラーは助かる道は完全に閉ざされていたためドイツの人種、文化、建造物まで全てを道連れにする覚悟を決めていた<ref>アントニー・ビーヴァー『ベルリン陥落1945』川上洸 訳、白水社、p.275。</ref>。
 
ビエト赤軍の砲撃が市内に直接届く段階になると、市民の多くはベルリン市内の[[ティーアガルテン]]、フンボルトハイン公園、フリードリヒスハイン公園の3箇所に建てられた[[高射砲塔]](通称「G塔」)をはじめ、軍が構築したコンクリート製の大型防空壕や、地下鉄の駅構内、下水道、個人宅の庭に掘った防空壕、個人宅の地下室など、身を潜められる所にはどこでも避難したが、動くことすらままならず水道も断水され衛生状況は悪かった。
 
そのうち送電が断たれたためラジオ放送すら聴くことが不可能になった。情報を求める市民の間では、もうすぐ米軍が救援のために味方してくれるとかいった信憑性に乏しい噂が流れた。
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=== ベルリンの無条件降伏 ===
 
ヒトラーの遺言で任命された新ドイツ政府の首相ゲッベルスは、ソ連と講和交渉を行うため、[[参謀総長]][[ハンス・クレープス]]大将を軍使として派遣し、2時間に亘る停戦の申し入れを行ったが、ソビエト赤軍はその申し入れを退け、ベルリンの無条件降伏を要求した。ゲッベルスはこの要求を拒絶し、代わりにベルリン守備隊によるソビエト赤軍のベルリン包囲網を突破する作戦の敢行を許可した。しかし、既に包囲網突破は不可能な状態であり、5月1日から2日にかけ、ベルリンの守備隊は降伏した。<ref>V・K・ヴィノグラードフ,Ya・F・ポゴーニィ,N・V・チェプツォフ 編『KGB秘調書 ヒトラー最後の真実』 佐々木洋子,貝澤哉,鴻英奈 訳、光文社、2001年、ISBN 4-334-96113-4、pp.409-412。</ref>
 
尚、ゲッベルスはソビエト赤軍との停戦交渉が失敗に終わると、デーニッツにヒトラー死去の知らせを送り、その後、妻と子供6人を道連れに自殺した。<ref>ピーター・アンティル『<small>世界の戦場イラストレイテッド1 </small> ベルリンの戦い 1945』三貴雅智 訳、大日本絵画、p.85。</ref>
 
== 終焉 ==
[[画像:ElbeDay1945 (NARA ww2-121).jpg|thumb|250px|1945年4月25日、エルベ川で合流した米軍とソビエト赤軍の兵士が平和を誓い合った。]]
=== ドイツ無条件降伏 ===
ドイツ南部にはまだ武装したドイツ軍部隊が多く、[[5月1日]]にヒトラーの後継者として大統領に指名されたカール・デーニッツ提督の隷下にあった。彼は、[[5月6日]]に全権委任した[[アルフレート・ヨードル]]を[[ランス (マルヌ県)|ランス]]の連合軍最高司令官[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]の司令部に派遣、ソ連軍に包囲されたバルト海沿岸のドイツ東部から避難民を海路ドイツ西部に受け入れるまでの時間的猶予を交渉、48時間の猶予を許され、発効を[[5月9日]]零時として[[5月7日]]にドイツ国防軍全軍の[[無条件降伏]]文書に署名した。それでも多くの避難民はソビエト赤軍の手に落ち、悲劇的な運命をたどることになった。
 
== 余波 ==
=== ドイツ人への報復 ===
ビエト赤軍の報復は苛烈を極め、女性の多くがソビエト赤将兵により[[強姦]]され、数多くの市民が自決した。ゲルハルト・ライヒリング博士に拠ると、当時ベルリンの女性の平均人口は149万5500人と推計され、その6.7%に相当する10万人がソビエト赤軍兵士による性暴力の被害者となり、うち10%前後が[[性行為感染症|性病]]に罹ったとされている。レイプされた女性は心理的外傷を負い、10万人のうち1万人前後が死亡した。
これはベルリンに限ったことではなく、ソ連軍に占領されたドイツの町や村の多くで起こった<ref>ヘルケ・ザンダー / バーバラ・ヨール『1945年・ベルリン解放の真実 <small>戦争・強姦・子ども</small>』寺崎あき子・伊藤明子 訳、現代書館、1996年、ISBN 4-7684-7772-0 pp.66-76。</ref>。ソ連の作家[[イリヤ・エレンブルク]]は1964年に出版した回想録に「ブロンドのドイツ娘をさらえ、それは諸君の戦利品だ!と赤軍兵士を煽った」と非難されたことを記している<ref>イリヤ・エレンブルク『わが回想 <small>人間・歳月・生活</small>』第五部、木村浩 訳、朝日新聞社、1969年、 pp.33-44。</ref>。
 
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== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group= "注釈"/>
===出典===
{{reflist|2}}
 
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=== 参考文献 ===
==== ノンフィクション ====
* Hugh H.R.Trevor-Roper トレヴァ=ローパー『ヒトラー最後の日』橋本福夫 訳、雄鶏社、1951年。
* Cornelius Rayn コーネリアス・ライアン『ヒトラー最後の戦闘』木村忠雄 訳、[[朝日新聞社]]、1966年。
* [[吉村昭]]『深海の使者』[[文藝春秋]]<[[文春文庫]]>、1976年、ISBN 4-16-716901-0。
* John Toland ジョン・トーランド『アドルフ・ヒトラー』永井淳 訳、[[集英社]]、1979年。
* Wolfgang Paul 『最終戦 <small>1945年ドイツ</small>』[[松谷健二]] 訳、フジ出版社、1979年。
* T・プリーヴィエ 『ベルリン』金森誠也・安藤勉 訳、論創社、1992年。
* Adaエイダ Petrovaペトロヴァ / Peter Watsonピーター ワトソン『ヒトラー最後の日 <small>50年目の真実</small>』藤井留美 訳、[[原書房]]、1996年、ISBN 4-562-02861-0。
* Antony Beevor アントニー・ビーヴァー『ベルリン陥落 <small>1945</small>』川上洸 訳、[[白水社]]、2004年ISBN 4-56-002600-9。
* Joachim Fest ヨアヒム・フェスト『ヒトラー・最後の12日間』鈴木直 訳、[[岩波書店]]、2005年、ISBN 4-00-001934-1。
* 高橋慶史『続 ラスト・オブ・カンプフグルッペ』大日本絵画、2005年、ISBN 4-499-22748-8。
* HenrikH・エーベルレ、M・ウール Eberle/Matthias Uhl『ヒトラー・コード』高木玲 訳、[[講談社]]、2006年、ISBN 4-06-213266-4。
 
==== 回顧録 ====
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{{Campaignbox-bottom|独ソベルリン攻防戦}}
 
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