「アメリカ独立戦争におけるドイツ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Libertas (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
1行目:
'''アメリカ独立戦争におけるドイツ'''(アメリカどくりつせんそうにおけるドイツ、英;Germans in the American Revolution)では、[[アメリカ独立戦争]]に[[ドイツ]]とドイツ民族がどのように関わったかを概説する。この戦争でドイツ民族は米英両軍に関わりを持った。その多くはアメリカの[[ロイヤリスト]]を支持し、[[イギリス]]の同盟国として参戦したが、これはイギリス国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]が[[ハノーファー王国|ハノーファー]][[選帝侯]]を兼ねていたからでもあった。反乱を起こしたアメリカの[[パトリオティズム|パトリオット]](愛国者)を助けるために大西洋を渡ったドイツ人もいたが、パトリオットにいたドイツ人の大半は既に植民地人としてアメリカにいた者達だった。
 
== イギリスの同盟者 ==
[[Fileファイル:George III in Coronation Robes.jpg|thumb|240px|イギリス国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]は[[ハノーファー王国|ハノーファー]][[選帝侯]]でもあった。]]
アメリカ独立戦争の時代ドイツは現在あるようなドイツという統一は無かった。その替わりに家でなく、[[神聖ローマ帝国]]の下に多くの[[領邦]]が緩やかに統合されていた。その領邦の多く公式に[[プロテスタント]]を信奉しており、グレート・ブリテン連合王国のようなプロテスタントの国々と同盟するのが伝統であり、った。また[[ジョージ1世 (イギリス)|ジョージ31]]に始まる[[ハノーヴァー朝]]の君主イギリス国王と[[ハノーファー王国|ハノーファー選帝侯]]を兼ねていた。アメリカのイギリス植民地で反乱が起こったとき、イギリスはアメリカ植民地人の反乱を鎮めるために、ドイツの幾つかの領邦とイギリス軍を助ける兵士を借りる契約をした。ドイツ人は一般にこの戦争においてドイツ兵が従軍できることに大きな誇りを持っていた<ref>Eelking, 263</ref>。
 
アメリカ人はアメリカの大地にドイツ人部隊が到着したことに警戒心を抱き、それをイギリス国王による裏切りと捉えた。イギリス国王がドイツ兵を使うならば、喜んで独立を宣言すると言ったアメリカの代議員も少なからずいた<ref>Ferling, 114</ref>。ドイツ兵はアメリカのパトリオットに宣伝材料を提供した。ドイツ兵は軽蔑的に「傭兵」と呼ばれ、[[アメリカ独立宣言]]の中にも次のように言及された。
9行目:
 
=== ヘッセン=カッセル ===
イギリス国王ジョージ3世の義理の叔父である[[フリードリヒ2世 (ヘッセン=カッセル方伯)|フリードリヒ2世]]が治めるヘッセン=カッセル方伯領はまず12,000名以上の兵士をアメリカで戦うために提供した<ref>Eelking, 23</ref>。同盟者であるイギリスと同様に、ヘッセンの兵士は北アメリカの環境に順応するのが難しかった。最初に派遣された兵士は広く蔓延した疫病に罹り、[[ロングアイランドの戦い]]では攻撃に遅れを生じさせた<ref>Ferling, 566</ref>。1776年からはヘッセンの兵士が北アメリカ駐在のイギリス軍に組み入れられ、ニューヨーク・ニュージャージ方面作戦、[[ジャーマンタウンの戦い]]、チャールストン包囲線および最後の[[ヨークタウンの戦い|ヨークタウン包囲戦]]を含み主要な戦闘の大半に参戦した。ヨークタウンではヘッセンの兵士約1,300名が捕虜になった<ref>Ferling, 538</ref>。ただし、様々な報告書を読むとヘッセンの兵士はイギリス軍の兵士よりも士気が高かったということである<ref>Ferling, 536</ref>。
 
[[Fileファイル:Wilhelm von Knyphausen.jpg|right |thumb |<center>ヴィルヘルム・フォン・クニプハウゼン将軍<center>]]
独立戦争の間、ヘッセン=カッセルは16,000名以上の兵士を送り、そのうち6,500名を失ったと見積もられてきた<ref name=E257>Eelking, 257</ref>。ヘッセン軍の士官(後に将軍)のアダム・ルドビッヒ・オクスは1,800名の兵士が戦死したが、ヘッセン軍の多くがアメリカに留まるつもりで来ており、戦後も留まったと推計した<ref name="Eelking, 258">Eelking, 258</ref>。ドイツ軍部隊の大多数がヘッセンから来ていたので、アメリカ人はドイツ軍部隊を全て総称的に「ヘシアン」(Hessians)と呼ぶことがあった。ヘッセン=カッセルはイギリスとの間に、15個歩兵連隊、4個[[擲弾兵]]大隊、2個[[猟兵]]中隊および3個砲兵中隊を送る同盟条約を結んだ<ref name="Eelking, 16">Eelking, 16</ref>。特に猟兵は注意深く徴兵され給与や制服も良く、肉体労働からは解放されていた<ref>Eelking, 100-101. Jagers were offered a signing bonus of one Louis d'or coin, which increased up to 4 coins as Hessen tried to fill their companies with expert riflemen and woodsmen.</ref>。
 
ドイツ軍は大西洋の反対側まで来ていて失った者をぐには補充できなかったので、[[アフリカ系アメリカ人]]を従僕や兵士として徴兵した。ヘッセン部隊として従軍した黒人兵は115人おり、その大半は鼓手か笛奏者としてだった<ref>[http://www.americanrevolution.org/blk.html The Revolution's Black Soldiers] by Robert A. Selig, Ph.D.</ref>。
 
おろらくヘッセン=カッセルの士官で最も良く知られていた者はヴィルヘルム・フォン・クニプハウゼン将軍であり、独立戦争の幾つかの主要戦闘でヘッセン部隊を指揮した。その他著名な士官としては、カール・フォン・ドノープ大佐とヨハン・ラール大佐であり、ラールは[[トレントンの戦い]]で致命傷を負った。ラール指揮下の連隊は捕獲され、その兵士の多くはペンシルベニアに送られて農園で働かされた。
 
=== ヘッセン=ハーナウ ===
[[ハーナウ|ヘッセン=ハーナウ]]はヘッセンの独立した都市であり、ヘッセン=カッセルの[[カトリック教会|カトリック教徒]]であるフリードリッヒ2世の長男(のちに方伯を継ぐ)、プロテスタントの[[ヴィルヘルム1世 (ヘッセン選帝侯)|ヴィルヘルム1世]]が治めていた。ヴィルヘルム1世が1775年の[[バンカーヒルの戦い]]について報せを受けたとき、無条件でジョージ3世に1個連隊を提供した<ref>Lowell, 7</ref>。独立戦争の間、ハーナウは2,422名の兵士を提供し、981名を失った<ref name=E257 />。ヘッセン=ハーナウからはヴィルヘルム・フォン・ガール大佐が良く知られた士官だった。ガールはイギリス軍[[ジョン・バーゴイン]]将軍の下でハーナウからの1個連隊を指揮した<ref>Ketchum, 93</ref>。北アメリカに派遣された部隊の中には、1個歩兵大隊、1個猟兵大隊、自由軍団と呼ばれた1個非正規歩兵大隊および1個砲兵中隊がいた。
 
=== ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンュッテル(ブランズウィック) ===
[[Fileファイル:Duke Ferdinand of Brunswick-Wolfenbuettel (1721–1792).JPG|thumb |right |ブランズィッンシュヴァイク=ヴォルフェンュッテル公カール・ヴィルヘルム・フェルディナントはイギリス国王ジョージ3世の義理の兄だった]]
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク、すなわちブランズウィックは小さな区域に分割された公国であり、そのうちの1つがジョージ3世に支配されていた。[[ブラウンシュヴァイク=ベヴァーン家]]の[[カール1世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)|カール1世]]はブランズウィック=ヴォルフェンブュッテル公だった。その息子で後継者であるカール・ヴィルヘルム・フェルディナントはジョージ3世の姉である[[オーガスタ・オブ・ウェールズ|プリンセス・オーガスタ]]と結婚していた<ref>Lowell, 8</ref>。「公爵領」と呼ばれるその領地は神聖ローマ帝国の公国領邦だった。
 
1775年、プリンス・カールとも呼ばれるカール・ヴィルヘルム・フェルディナント公子がジョージ3世に、ブラウンシュヴァイクはアメリカでの反乱鎮圧のために利用できる軍隊があると告げた<ref>Ketchum, 95</ref>。ブラウンシュヴァイクは1776年1月9日にイギリスを支援する条約に署名しこのことではドイツの領邦最初の邦となっに署名した。この時、4個歩兵連隊、1個擲弾兵大隊、1個竜騎兵連隊および1個軽歩兵大隊で構成される総計4,000名が派遣されることで合意した<ref name="Eelking, 16"/>。この条約では、兵士の給与が2ヶ月前払いで、ドイツの通貨[[ターラー (通貨)|ターレル]]で支払われることとされ、兵士は全てジョージ3世に忠誠を誓うことが要求された<ref>Eelking, 17</ref>。
 
カール1世はイギリスに、フリードリッヒ・バウム中佐の下に4,000名の歩兵と350名の重竜騎兵(馬を持たない<ref>ブラウンシュヴァイクの重竜騎兵は馬を持たず、歩兵として行動した。作戦中に馬を獲得することが期待され、その1つが[[ベニントンの戦い]]に繋がった。</ref>)を提供し、全軍指揮はフリードリッヒ・アドルフ・リーデゼル将軍に執らせた。これらの部隊は、1777年の[[サラトガ方面作戦]]でジョン・バーゴイン将軍の下にいたドイツ正規軍の大半であり、一般に「ブランズウィッカー」(Brunswickers)と呼ばれた<ref>Ketchum, 32</ref>。ブラウンシュヴァイクとヘッセ=ハーナウの複合部隊でバーゴイン軍の半数近くを占め<ref>Ketchum, 137</ref>、ブランズウィッカーは特に良く訓練されていることで知られた<ref>Ketchum, 131</ref>。リーデゼルの妻、フレデリカが夫に同行して日記を付けており、これがサラトガ方面作戦の重要な一次史料となった。バーゴインの降伏の後、2,431名のブランズウィッカーが終戦まで協議の軍隊として拘束されたままだった<ref>Smith, 2</ref>。
 
ブラウンシュヴァイクは総計5,723名の兵士を北アメリカに送り、そのうち3,015名は1783年秋にドイツに戻らなかった<ref name=E257 /><ref name="smith1">Smith, 1</ref>。戦死や脱走による損失もあったが、多くのブランズウィッカーは協議の軍隊として滞在する間にアメリカ人と親しくなり、戦争が終わるとアメリカの議会や上司の士官からアメリカに留まる許可を得た<ref name="Eelking, 258"/>。協議の軍隊として軍務を放棄する機会を得た多くの者は、ペンシルベニア東部のドイツ人開拓地を行進した者の倍になった<ref>Smith, 3</ref>。カール1世はアメリカで戦死した兵士全員についてイギリスから補償を受け取ったので、脱走兵可能な限り死者として報告されることに興味利益に叶ていた<ref name="smith1" />。ブランズィッンシュヴァイク公はアメリカに留まった、あるいは戻った兵士にも6ヶ月分の給与を払うこともした<ref>Eelking, 267</ref>。
 
=== アンスバッハ=バイロイト ===
[[カーグラフェアレクサンダー (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)|カール・アレクサンダー]][[辺境伯]]の治める[[アンスバッハ侯領|アンスバッハ]][[バイロイト侯領|バイロイト]]は、当初2個歩兵大隊、1個猟兵中隊および1個砲兵中隊からなる1,644名の兵士を提供し、461名を失った。戦争が終わる前に、最大2,353名が派遣された<ref name=L11>Lowell, 11</ref>。これらの部隊は[[ニューヨーク]]で[[ウィリアム・ハウ|ハウ]]将軍の軍隊に組み入れられ、フィラデルフィア方面作戦の一翼を担った<ref>Eelking, 105</ref>。アンスバッハ=バイロイトの部隊は、ヨークタウンの包囲戦のときに、チャールズ・コーンウォリス将軍の下に、1,100名近い部隊でいていた<ref>Eelking, pgs 203, 209, 214</ref><ref>Lowell, 277</ref>。
 
アンスバッハ=バイロイトの連隊は[[オクゼンフルト]]で起こった反乱で記憶されている。兵士達は[[マイン川]]の船に乗せられていたが、[[ヴュルツブルク]]の司教が開放を拒んだ橋を渡ることはできなかった。1777年3月8日朝、何人かのアンスバッハ兵が川岸に辿り着くことができ、他の船を陸にたぐり寄せた。士官達はその不安を伝えようとしたが、何人かの兵士が脱走した。兵士の脱走を防ぐために追撃兵が付けられ、威嚇射撃をすると反乱兵が反撃した。アンスバッハのマルグラフェが辺境伯は暴動の報せを聴いたとき、即座に馬に跨り夜を徹して駆けてオクゼンフルトに行っ駆けつけた。マルグラフェ辺境伯は兵士たちに再度船に船するよう説得し、[[マインツ]]まで行って、選帝候の同意無しに橋を開放させることに成功した。
 
アンスバッハ=バイロイトのマルグラフェ辺境伯は戦争が始まったとき大きな負債を抱えており、その兵士を使わせる代償として10万[[ポンド (通貨)|ポンド]]以上を受け取った<ref name=L11 />。1791年、終戦からそれほど経っていいときにく1791年辺境伯はアンスバッハ=バイロイトを[[プロイセン王国]]に売却し、残りの人生はプロイセンの年金を使ってイングランドで生活した<ref>Lowell, 12</ref>。
 
=== ヴァルデック侯国 ===
[[ヴァルデック侯国]]は1775年4月25日にイギリスを支援する条約を締結したが、これは[[レキシントン・コンコードの戦い]](丁度ちょうど1週間前)に関する報せがヨーロッパに届く前のことだった<ref name="Eelking, 16">Eelking, 16</ref>。ワルデックのフリードリヒ・カール・アウグスト子は海外で雇用されて従軍可能な3個連隊を持っていた。684名の将兵からなる最初の連隊は1776年7月に[[ポーツマス (イングランド)|ポーツマス]]を出港し、ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦に参戦した<ref>Eelking, 47</ref>。この作戦の間、ヴァルデック連隊はアメリカの[[チャールズ・リー (軍人)|チャールズ・リー]]将軍の所有するワインと蒸留酒を捕獲したが、イギリス軍のハウ将軍が路傍でそれらの瓶を空にさせたときには苦い思いをした<ref>Eelking, 50</ref>。
 
ヴァルデック部隊はヘッセンのヴィルヘルム・フォン・クニプハウゼン将軍の下でドイツ補助隊に統合された。ヴァルデックは1,225名を派遣し、720名を失った。
 
=== ブランズィッンシュヴァイク=リューネブルク(ハノーファー)選帝 ===
ブランズィッンシュヴァイク=リューネブルク選帝は他でもないイギリス国王ジョージ3世であり、その4個大隊がまず[[ジブラルタル]]に派遣されて、そこで包囲されていたイギリス軍を開放し、その後にアメリカで戦うために派遣されることとされていた<ref name="Eelking, 16"/>。これはジョージ3世の命令ではなかったが、イギリス議会とハノーファーとの間で承認された条約の一部であり、イギリスは戦時の費用を払うこととドイツの同盟国を保護することに同意していた<ref>Rosengarten, The German Soldier, 62-63</ref>。
 
=== アンハルト=ツェルプスト ===
アンハルト=ツェルプストの王子、侯[[フリードリヒ・アウグスト (アンハルト=ェルプト侯)|フリードリヒ・アウグスト]]は1777年にイギリスに1,160名の部隊を供する条約を締結した。5ヶ月のうちに900名の新兵を徴募して、2個大隊からなる1個連隊が起ち上げられた<ref>Eelking, 238</ref>。600名ないし700名の1個大隊が1778年5月に[[カナダ]]の[[ケベック (ケベック州)|ケベック市]]に到着した<ref>[http://www.cmhg.gc.ca/cmh/en/page_310.asp http://www.cmhg.gc.ca/cmh/en/page_310.asp]</ref>。この他に[[オーストリア帝国]]内の[[スラヴ人]]から徴募した非正規兵であるパンドゥール兵約500名からなる部隊が、1780年にイギリス軍の占領するニューヨーク市に派遣された。しかし、当時の証言ではパンドゥールと表現されていたが、これらの部隊が正規軍軽歩兵隊としての機能を果たせたかどうかは大いに議論のあるところである。
 
== アメリカの同盟者 ==
=== ドイツ系アメリカ人 ===
イギリス人植民者によって[[バージニア州|バージニア]]の[[ジェームズタウン (バージニア州)|ジェームズタウン]]開拓地が設立されてから間もなく、そのイギリス植民地へのドイツ人移民が始まった。1690年、ドイツ人植民者は北アメリカで初めての抄紙工場を建設し、イギリスよりも早くアメリカで[[聖書]]が印刷された。18世紀半ばまで、植民地アメリカの人口の10%はドイツ語を話していた<ref>Bobrick, 41</ref>。[[フレンチ・インディアン戦争]]の間、イギリスは北アメリカにいる多くのドイツ人移民を使ってロイヤル・アメリカ連隊を結成したが、それに徴兵された者は基本的にドイツ人移民だった<ref name=TGS11>Rosengarten, The German Soldier, 11</ref>。この連隊の初代指揮官は[[スイス]]生まれのヘンリー・ブーケ将軍だった。この連隊は後にハウ将軍が指揮を執った。
 
[[Fileファイル:Muhlenberg.jpg|thumb |right |フレデリック・ミューレンバーグ、アメリカ合衆国下院議長を務めた]]
イギリス植民地にいた他の民族集団と同様にドイツ語を話す植民地人も2に割れてパトリオットとロイヤリストのどちらかを支持した。ドイツ人ロイヤリストは地元の民兵隊の中で戦い、戦後は追放されてドイツに戻った者もいた<ref>Bobrick, 482 Note: This refers to "Deutschland," literally "the land of the Germans," referring to the German states of the 18th century; there was no nation called "Germany" in the 1780s.</ref>。独立戦争中のニューヨークにはかなりの数のドイツ人がいた。その他の植民地はドイツ人連隊を作ったり、ドイツ系アメリカ人を地元の民兵隊に参加させた。[[サウスカロライナ州|サウスカロライナ]]、[[チャールストン (サウスカロライナ州)|チャールストン]]のドイツ人植民地人は1775年に擲弾兵中隊を結成し、[[ジョージア州|ジョージア]]のドイツ人も[[アンソニー・ウェイン]]将軍の下に入隊した者がいた<ref>Resengarten, 18</ref>。
 
ドイツ人植民地人は特に[[ペンシルベニア州]]で記憶されている。これは移民に対する帰化条件が友好的だったこと<ref>Rosengarten, The German Soldier, 10</ref>、またペンシルベニアのドイツ人兵士がペンシルベニアで大きな人口になっていた平和主義者の[[クエーカー]]教徒と対照的な姿勢だったこと<ref name=TGS11 />も一部寄与している。例えばピーターとフレデリックのミューレンバーグ兄弟はペンシルベニアでの第1世代だった。ペンシルベニアのドイツ人は戦前に[[レディング (ペンシルベニア州)|レディング]]に移民してきた[[プロイセン王国|プロイセン]]の士官バーソロミュー・フォン・ヘール大尉の下で、アメリカの憲兵司令部に徴募された<ref>Ferling, 340</ref>。
 
1776年6月27日、第二次[[大陸会議]]は[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]]の一部として「ドイツ人連隊」を結成することを承認した。当初は[[メリーランド州|メリーランド]]からの4個中隊とペンシルベニアからの4個(後には5個)中隊の合計8個中隊で構成された。アンソニー・ウェイン将軍の下のニコラス・ホイセッガー少佐が大佐(連隊長)に任官された。この連隊はトレントンの戦いや[[プリンストンの戦い]]に参戦し、[[ジョン・サリバン|サリバン]]の[[インディアン]]に対する遠征にも参加した。この連隊は1781年1月1日に解隊された<ref>Rosengarten, The German Soldier, 103</ref>。
 
=== ヨーロッパのドイツ人 ===
[[Fileファイル:Baron von Steuben.jpg|thumb|180px|[[フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン|ストイベン男爵]]、プロイセン軍の士官であり、アメリカ独立戦争では大陸軍の監察長官を務めた。大陸軍に軍事演習の基本や規律を教え、戦いを勝利に導いたとされている。]]
ヨーロッパのドイツ人もアメリカの同盟者としてアメリカ大陸に渡った。フランス国旗の下でアメリカにたドイツ人もいた。ヨハン・ド・カルプは[[バイエルン大公|バイエルン]]人であり、[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]]の将軍となる前はフランス軍に仕えていた。フランスはドイツ語を話す兵士2,500名以上で8個連隊を持っていた<ref>Rosengarten, The German Soldier, 110-111</ref>。フランスのロイヤル・ドゥポン連隊にもドイツ人兵士と士官がいた<ref>[http://www.americanrevolution.org/blk.html The Revolution's Black Soldiers] by Robert A. Selig, Ph.D.</ref>。
 
他にも軍人としての経験を生かしてアメリカにたドイツ人がいた。例えば、ヴォートケ男爵フレデックードリヒリアルヘルムはプロイセンの士官であり、戦争初期に大陸軍の任官を受けたが、1776年にニューヨークで死んだ。グスタフ・ローゼンタールは[[エストニア]]出身の[[バルト・ドイツ人|ドイツ人]]であり、大陸軍の士官になった。ローゼンタールは戦後母国に帰ったが、デイビッド・ジーグラーのような他のドイツ軍人はアメリカに留まることを選び、その建国を助けた国の市民になった。
おそらく、パトリオットを支援したドイツ人として最も有名なのはプロイセンからの[[フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン]]であり、[[ジョージ・ワシントン]]の下で監察長官を務め、アメリカ軍のために最初の軍事教練本を書いた。シュトイベンはフランスを経由して独自にアメリカに来ていた。
シュトイベンの母国プロイセンは[[武装中立同盟]]に参加し<ref>Commager, 994</ref>、[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]は戦争初期に支援したことでアメリカでは喜ばれた。イギリスの港を経ずしてアメリカとの貿易を始めることに興味を示し、プロイセンでアメリカの代理人が武器を買うことを認めた<ref>Rosengarten, Frederick the Great, 5</ref>。フリードリヒ2世はアメリカの成功を予言し<ref>Rosengarten, Frederick the Great, 13</ref>、アメリカ合衆国を認知することを約束し、フランスと同様にアメリカの外交官を受け入れた<ref>Rosengarten, Frederick the Great, 14</ref>。プロイセンは[[ロシア帝国|ロシア]]など隣国がアメリカに派遣する軍隊を起ち上げる時に干渉し、フリードリヒ2世はプロイセン国内でアメリカのために徴兵することを禁じた<ref>Rosengarten, The German Soldier, 22</ref>。また、プロイセン国内の道路をアンハルト=ツェルプストの軍隊が通ることを禁止し、この部隊は1777年から1778年の冬に[[バレーフォージ|ワシントンの軍隊]]を潰すためにハウ将軍が必要としていたものだったが、到着が遅れた。<ref>Resengarten, Frederick the Great, 17</ref>。
 
しかし[[バイエルン継承戦争]]が勃発すると、フリードリヒ2世はプロイセンとイギリスの関係に大変神経質になった。アメリカの船舶はプロイセンの港に接近することを止められ、[[1783年]]の[[パリ条約 (1783年)|パリ条約]]に調印するまで公式にアメリカ合衆国を認知しなかった。戦後になってもアメリカ合衆国は共和国として運営するには大きすぎるので、間もなくイギリス議会に代表を送って大英帝国に復帰するだろうと予言した<ref>Rosengarten, Frederick the Great, 19</ref>。
 
== 脚注 ==