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reject_y = [[1871年]]|
remains = 石垣、堀|
cultural asset =国史跡|
rebuilding things = なし|
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[[臥牛山]]に初めて城が築かれた年代は定かではないが、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]([[16世紀]]初頭)に、阿賀北の領主、[[本庄氏]]によって築城されたとみられている。当時は本庄城と呼ばれており、木柵で防御された[[中世]]式の城郭であった。[[永禄]]11年([[1568年]])、城主[[本庄繁長]]は[[上杉謙信]]に反旗を翻す。1年に亘り籠城し、謙信に抵抗した繁長であったが、[[伊達氏]]、[[蘆名氏]]の斡旋を受け入れ、嫡子[[本庄顕長|顕長]]を人質に出し、所領を一部没収されることで講和を受け入れた。
 
慶長3年([[1598年]]、本庄氏の[[会津]]転封にともなって、[[堀秀治]]の家臣・[[村上頼勝]]が領主となる。[[村上氏]]によって始められた[[近世]]城郭への改築工事は、[[堀直寄]]の時代に完成を見た。堀氏の時代には3重の[[天守]]が建てられ、また[[城下町]]の構えや町割りも整備された。
 
慶安2年([[1649年]]に姫路から[[松平直矩]]が入城。[[寛文]]年間に村上城は大規模に改修された。天守、櫓等が新たに造り直されたが、ほどなく寛文7年([[1667年]]の落雷により天守等を焼失。以後、城主が転々と変わったこともあり、天守が再建されることはなかった。
 
幕末の[[戊辰戦争]]では、内藤家の[[村上藩]]は親幕府派と新政府派で意見が分かれて分裂状態となり、慶応4年([[1868年]]官軍に抗しきれないとみた親幕府派の藩士が山麓居館に火を放って庄内方面へ脱出。[[庄内藩]]兵と合流し、新政府軍と羽越国境で交戦した。
 
[[明治]]3年([[1870年]])新たに成立した「[[廃藩置県|村上県]](後に[[新潟県]]に合併)」知事となった[[内藤信美]]は、焼け残っていた城郭の破却を政府に届出し、受理された。この時点ではまだ城下の諸門や石垣はほとんど無傷で残っていたというが、それも明治8年までに解体・売却された。今でも村上市内には、このときに売り払われたと見られる石垣の一部が、民家の庭石や塀の礎石として残っている。
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* [[安永]]7年([[1778年]])、火災により三重櫓、月見櫓が焼失。
* [[明治元年]]([[1868年]])、北越[[戊辰戦争]]で村上藩士撤兵の折全城焼失。
* [[明治]]8年([[18761875年]])、残存する建物遺構の解体撤去が終了。
* [[昭和]]35年([[1960年]])、新潟県指定の史跡となる。
* [[平成]]5年([[1993年]])[[6月8日]]、国の史跡に指定される。