「色部光長」の版間の差分

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{{武士/時代|[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]}}
{{武士/生誕|[[天正]]15年([[1587年]])}}
{{武士/死没|[[寛永]]17年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]([[1640年]][[7月20日]])}}
{{武士/改名|綱長→光長}}
{{武士/別名|竜松丸(幼名)、与三郎(通称)}}
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{{武士/氏族|[[色部氏]]}}
{{武士/父母|父:[[色部長真]]、母:[[新発田重家]]の妹}}
{{武士/兄弟|女子}}
{{武士/妻|[[直江兼続]]次女}}<ref>『色部文書』文禄元(1592年)8月17日付色部長真書状(長真の遺言状)に「旦那(兼続)御'''次女'''申し受け、愚息に契約(婚約)申し度く候」とある。</ref>
{{武士/子|''[[色部利長]]''(安田俊広次男)}}
{{武士/終了}}
 
'''色部 光長'''(いろべ みつなが)は[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]の武将。[[上杉氏]]の重臣。
越後国[[岩船郡]]小泉庄[[平林城]]主([[新潟県]][[村上市]]平林)、上杉家の会津移封で出羽国[[金山城]]主([[山形県]][[南陽市]])。
上杉家減封後は出羽国窪田村([[山形県]][[米沢市]]窪田)を知行とする。
始めは義父の[[直江兼続]]から[[直江氏]]の通字である「綱」の字を貰い綱長と名乗る<ref>『色部文書』慶長7(1602年)12月16日付色部竜松丸宛直江兼続書状より</ref>が、
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==生涯==
天正15(158715([[1587年]])に[[越後国]][[岩船郡]]小泉庄で生まれる。
文禄元(1592([[1592年]])に父[[色部長真|長真]]が死去したため、6歳で家督を継ぐ。
同年、長真の遺言に従って兼続の次女を正室に迎える。
慶長3(15983([[1598年]])の会津移封の際には、出羽金山城主に任じられ、
慶長5年([[1600年]])の[[慶長出羽合戦]]・19年([[1614年]])の[[大坂冬の陣]]に参加している。
寛永元年([[1624年]])1月15日に長門守となり、同3年([[1626年]])11月に侍頭に就任する。
米沢藩では、重職である侍頭の役職に就いている。
寛永17年([[1640年]])6月2日没、享年54。
 
==人物・逸話==
*出羽金山城主であったとき、用事で城を訪れた義父・直江兼続をもてなそうと用人に御馳走を出させたところ、兼続はお吸い物に雁が入っているのを見て「雁を入れるのは贅沢だ」と光長に言い、お吸い物にはをつけなかっず、その後光長の用人を追放した。(出典:『直江兼続82101の謎』より
*慶長9年([[1604年]])10月18日に公家の[[飛鳥井雅庸]]から蹴鞠の稽古書と免翰を受け取っている。
 
==参考文献==