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'''張 星賢'''(ちょう せいけん、[[1910年]][[6月2日]] - [[1989年]][[3月14日]]<ref name="example">林玫君「太陽旗下的鐵人--張星賢的田徑世界」(中国語)『台湾教育史研究会通訊 第四十九期』(2007年)[http://140.109.185.220/pdf/eduhis49.pdf]</ref>)は、[[台湾]]出身の[[陸上競技]]選手([[短距離走]])。台湾が日本の統治下に置かれていた時代に、日本の代表として[[1932年]]の[[ロサンゼルスオリンピック (1932年)|ロサンゼルスオリンピック]]と[[1936年]]の[[ベルリンオリンピック]]に参加した。
 
[[台中県]]の[[龍井郷|龍井]]出身<ref>林玫君の論文では自伝の記載から[[台中市]]楠町(現在の[[東区 (台中市)|東区]])としている。</ref>。台中商業学校時代に陸上競技を始める。1929年には台湾の代表として[[明治神宮競技大会|明治神宮体育大会]]に出場しているが成績は振るわなかった。1930年に台中商業学校を卒業し、[[台湾総督府鉄道]]で倉庫管理員をしながら陸上競技を続けていた。同年4月の[[極東選手権競技大会|極東選手権]]台湾地区予選で[[三段跳び]]に優勝したにもかかわらず、日本東京で行われる最終選考た本大会への参加は認められなかった。張は後に、このできごとが民族意識を高めたと回想している<ref name="example"/>。1931年に[[早稲田大学]]に進学し、[[早稲田大学競走部]]に所属した。
 
1932年のロサンゼルスオリンピックの代表に選出される。このとき、[[中華民国の歴史|中華民国]]では同じ陸上競技で[[劉長春]]が初のオリンピック代表として参加したが<ref>劉を[[満州国]]のオリンピック代表候補とする動きに劉や中国国内からの反発が生じ、不参加の予定を変更して参加申請を行ったため、大会直前になって選手村に到着した。</ref>、エントリー・選手村への到着・競技への出場のすべてにおいて張が劉よりも先んじる形となり、「張が中国人で最初のオリンピック参加者である」との主張も見られる<ref>蘇嘉祥『運動巨人─張星賢,第一位参加奥運的台湾人』聯經出版社(台湾)、2008年</ref>。オリンピックでは[[400m走|400m]]・[[400メートルハードル|400mハードル]]に出場したが、いずれも予選落ちであった。