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1326年に父が死ぬと、ボルコ2世はその遺領を継承したが、弟[[ヘンリク2世 (シフィドニツァ公)|ヘンリク2世]]を共同統治者とした。公爵兄弟はまだどちらも十代だったため、母クネグンダ、父方の叔父であるヤヴォル公[[ヘンリク1世 (ヤヴォル公)|ヘンリク1世]]、ジェンビツェ公[[ボルコ2世 (ジェンビツェ公)|ボルコ2世]]が後見人となった。ザクセン=ヴィッテンベルク公[[ルドルフ1世 (ザクセン選帝侯)|ルドルフ1世]]と再婚していた母クネグンダが1331年に亡くなると、ボルコ2世は親政を開始した。
 
ボルコ2世が親政開始後すぐに直面したのが、自らの領する小公国の独立を保つという問題だった。ポーランドの分裂状態が、[[ポーランド王国]]にもその近隣諸国にも属そうとしない自主独立の気風を生んでいたのである。当時、[[シロンスク公国群|シロンスク諸公国]]を支配下に収めようと狙っていたのが、ボヘミア王[[ヨハン・フォン・ルクセンブルク]]だった。1329年、ヨハンはシフィドニツァ公に自らの宗主権を認めさせようという最初の試みを行った。ボヘミア王はすでにほぼ全てのシロンスク諸公を封臣として、同地域に大きな影響力を持つようになっていた。しかし、2人の諸公だけはボヘミアに膝を屈するのを拒んだ。ボルコ2世、そしてボルコの妹[[コンスタンツィア・シフィドニツカ|コンスタンツィア]]の夫、グウォグフ公[[プシェムコ2世 (グウォグフ公)|プシェムコ2世]]である。
 
ボルコ2世は公国の独立維持にはもっと多くの軍勢が必要だと悟り、ハンガリー王[[カーロイ1世 (ハンガリー王)|カーロイ1世ローベルト]]の宮廷に赴き、自分の独立主権を守ってもらうことを確約された。その直後、ボルコ2世は母方の祖父であるポーランド王ヴワディスワフ1世と交流を持つようになり、1329年には伯母の夫で神聖ローマ皇帝に即位したばかりだった[[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]の許を訪ねている。
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皇帝カール4世との政治上の親密な協力関係は、シフィドニツァ公にかなりの利益をもたらし、領土拡張の面では大いに恩恵を受けることになった。領内の経済的ハ佞を背景に、ボルコ2世は財政難に悩むシロンスクの他の諸公から多くの領土を買い取った。1358年にはレグニツァ公[[ヴァツワフ1世 (レグニツァ公)|ヴァツワフ1世]]から、[[ズウォティ・ストク]]の[[金鉱]]、[[ブジェク]]の半分と[[オワヴァ]]を購入した。その直後、シチナヴァ公[[ヤン (シチナヴァ公)|ヤン]]から[[シチナヴァ]]の半分を買い取っている。1359年、皇帝はボルコ2世に[[フリードラント]]を含むボヘミアの国境地域を購入することを許可した。その同じ年、ボルコ2世はチェシン公[[プシェミスワフ1世ノシャク]]から[[シェヴィエシュ]]を2300グジヴナで買った。1360年、ボルコ2世は[[ケンティ・ヴロツワフスキェ]]を購入した。またこの年、皇帝とシフィドニツァ公の良好な関係が功を奏し、グウォグフ公[[プシェムコ2世 (グウォグフ公)|プシェムコ2世]]の未亡人として30年近くを過ごしたボルコ2世の妹[[コンスタンツィア・シフィドニツカ|コンスタンツィア]]が、ボヘミアに支配されていた[[グウォグフ]]半国の領有を認められた(もう半分はジャガン公が1349年に獲得していた)。1361年、すでに修道女となっていたコンスタンツィアは、グウォグフ半国を兄ボルコ2世に譲渡した。皇帝はいずれ領地を取り戻せるはずだったため、この舅がグウォグフを獲得するのを望んだ。
 
ボルコ2世にとって破格の不動産となったのは、1364年4月14日に銀2万1000グジヴナという大枚をはたいて皇帝から買い取った[[ラウジッツ]](ルサティア)近郊の大都市および周辺の領地である。この領地はボルコ2世の持つ財産の中でも最も重要かつ高級なものだった。
 
同じ1364年、ボルコ2世は[[クラクフ会議]]に主賓の君主の一人として招かれた。公爵はそこで、ポーランド王カジミェシュ3世が主人役を務め、ハンガリー王ラヨシュ1世、デンマーク王[[ヴァルデマール3世 (デンマーク王)|ヴァルデマール3世]]、キプロス王[[ピエール1世 (キプロス王)|ピエール1世]]、オポーレ公[[ヴワディスワフ・オポルチク|ヴワディスワフ]]、スウプスク公[[ボグスワフ5世]]らが出席した高名な「ヴィエルジネクの祝宴」に参加している。