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隋による天下の統一が完成すると、知命は[[洛陽]]に都を置くよう[[楊堅|文帝]]に勧めるため、太平頌を奉って風刺した。このため文帝の不興を買って、数年の間は時宜をえなかった。ときに朝廷におもむいて[[高句麗]]に対する使者となることを願い出た。知命は「皇風を宣示し、かの君臣を闕下に縛って面会させましょう」と壮語したので、文帝はかれを尋常でない人物とみなした。一年あまりして、普寧鎮将に任ぜられた。知命には正しくまっすぐな人物であるとの評判もあったので、御史台で待詔の任務をえた。
 
[[604年]]、煬帝が即位すると、知命は治書侍御史に任ぜられた。発言を遠慮しなかったので、官僚たちには避けられたが、煬帝はかれを敬愛した。後に事件に連座して罷免された。一年あまりして、復職した。ときに斉王[[楊カン|楊暕]]が驕慢で気儘に振る舞い、小人物を近づけたので、知命はこのことを弾劾すると、結果として楊暕は罪をえて、官僚たちは慄然とした。高句麗遠征がおこなわれると、東暆道受降使者を務めた。[[614年]]、67歳で軍中で死去した。御史大夫の位を追贈された。
 
== 伝記資料 ==