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{{和暦|1910}}4月15日、[[第六潜水艇]]はガソリン潜航実験の訓練などを行うため[[岩国市|岩国]]を出航し、[[広島湾]]へ向かった。この訓練は、ガソリンエンジンの煙突を海面上に突き出して潜航運転するもので、原理としては現代の[[シュノーケル (潜水艦)|シュノーケル]]と同様であった。
 
午前10時ごろから訓練を開始、10104545分ごろ、何らかの理由で煙突の長さ以上に艇体が潜航したために浸水が発生したが、閉鎖機構が故障しており、手動で閉鎖する間に1717メートルの海底に着底した。長時間たっても浮上しないことに気づいた歴山丸は、ただちに呉在泊の艦船に遭難を報告。救難作業の結果、16日(17日)に引き揚げられ、内部調査が行われた。艇長[[佐久間勉]][[大尉]]以下、乗組員14人のうち12人が配置を守って死んでいた。残り2人は本来の部署にはいなかったが、2人がいたところはガソリンパイプの破損場所であり、最後まで破損の修理に尽力していたことがわかった。
 ただし、歴山丸は安全面の不安からガソリン潜航を禁止していた言われており、また佐久間大尉も、ガソリン潜航の実施を母船に連絡していなかった(学研「歴史群像」2009.8)。だが、この点が追及されたことは無いようである。また、事故調査委員会では、潜航深度1010フィートと言う、シュノーケルの長さよりも深い潜航深度の命令があったと記録されているが、実際にそのような命令ミスがあったのか(このようなミスは考えにくい)、記録上のミスなのかは不明。
 
この事故より先に[[イタリア海軍]]で似たような事故があった際、乗員が脱出用のハッチに折り重なったり、他人より先に脱出しようとして乱闘をしたまま死んでいる醜態を晒していたため、帝国海軍関係者も最初は醜態を晒していることを心配していた。ところが、実際にはほとんどの乗員は配置についたまま殉職、さらに[[佐久間勉|佐久間艇長]]は事故原因や潜水艦の将来、乗員遺族への配慮に関する遺書を認めていたため、これが「潜水艦乗組員かくあるべし」「沈勇」ということで、修身の教科書や軍歌として広く取り上げられたのみならず、海外などでも大いに喧伝された。特に[[イギリス海軍]]では教本になり、[[アメリカ合衆国議会議事堂]]には遺書の写しが陳列された
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*坂本金美『日本潜水艦戦史』図書出版社、1979年。
*「日本潜水艦史」『世界の艦船』1993年8月号増刊、海人社。
*飯島英一『第六潜水艇浮上せず・・・漱石・佐久間艇長・広瀬中佐』創造社、1994年。ISBN 4-881-56076-X
*TBSブリタニカ編集部編『佐久間艇長の遺書』 ティビーエス・ブリタニカ、 2001年。ISBN 4-484-01201-4
 
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*[http://homepage2.nifty.com/12kan/sakuma.htm 佐久間艇長の遺言全文]
*[http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/4685_9480.html 文芸とヒロイツク]
 
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[[Category:海難事故|たいろくせんすいてい]]