「イギリス領東アフリカ」の版間の差分

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[[1886年]]8月、後の[[タンザニア]]にあたる地域を植民地化しようとしてザンジバルに艦隊を差し向けた[[ドイツ帝国]]に対して、ザンジバルからの支援要請を受けたイギリスも東アフリカに介入した。フランスを交えた三カ国の協議の結果、東アフリカに分割線が引かれ、境界線の南の現在のタンザニアに当たる部分([[ドイツ領東アフリカ]])をドイツが、境界線の北の現在のケニアに当たる部分をイギリスが取ることになった。
 
イギリス政府は当時アフリカ大陸南部の権益確保に力を注いでおり余裕がなかったため、民間の手を借りることとし、インド洋全域に航路を広げザンジバル・スルタン国や東アフリカ一帯との商取引も行っていた英領インド汽船会社(British India Steam Navigation Company)の社長、ウィリアム・マッキノン(William Mackinnon)にアフリカ東部でのイギリス勢力圏の建設を勧めた。マッキノンはイギリス東アフリカ協会(British East Africa Association)を結成し、[[1888年]]には帝国イギリス東アフリカ会社(Imperial British East Africa Company, IBEA)を設立し勅許を受けた。その統治範囲は、ケニア最長の河川[[タナ川]]の河口からモンバサを経て[[ドイツ領東アフリカ]]との境界線までの150マイル(240キロメートル)の海岸線だった。これに先立つ[[ベルリン会議 (アフリカ分割)|ベルリン会議]]([[1884年]]から[[1885年]])で決まった[[アフリカ分割]]の原則では、沿岸部を領有した国は後背の領有も認められることになっていたため、これによる勢力圏はほぼ現在のケニアの範囲に等しくなった。さらに[[1890年]]には[[ウガンダ]]もイギリスの勢力圏に収めた。
 
イギリス東アフリカ会社はモンバサから[[ビクトリア湖]]への[[鉄道]]([[ウガンダ鉄道]])建設や農地開発などを始めたが、[[ブガンダ王国]](現ウガンダ)のカバカ(王)や各地を支配する宣教師たちとの対立が起こり、これに力と時間を割かれて経営は悪化した。[[1895年]][[7月1日]]、イギリス政府はイギリス領東アフリカの[[保護領]]化を宣言し英国外務省の管轄とし、[[1902年]]にはウガンダもその一部となった。[[1902年]]、東アフリカシンジケート(East Africa Syndicate)は内陸高原地帯に白人入植地を作るべく500平方マイル(1,300平方キロメートル)の開発認可を得た。[[1905年]]には管轄は植民地省へ移り、同じ年に首都は海岸のモンバサから内陸高原地帯の[[ナイロビ]]へと遷った。
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[[1902年]]4月、英領東アフリカ最初の土地出願が「東アフリカシンジケート」(East Africa Syndicate)により行われた。この会社は、[[イギリス南アフリカ会社]]に属する出資者たちが設立したもので、気候の良く涼しい高原地帯の500平方マイルの土地をヨーロッパ人による植民のために使おうとした。さらに、[[ユダヤ人]]入植地を適切な場所に作るための出願もなされた([[英領ウガンダ計画]])。[[1903年]]4月、イギリス軍の高名なアフリカ[[探検家]]で東アフリカシンジケートの重役でもあったアメリカ人[[フレデリック・ラッセル・バーナム]]が鉱物資源を求める探検隊を派遣した。ジョン・ウェストン・ブルックに率いられた探検隊はナイロビから[[エルゴン山]]を経てルドルフ湖(現・[[トゥルカナ湖]])西岸へ、水に事欠き[[マサイ族]]とも何度も遭遇する危険な旅を敢行した。1903年、数百人の入植者が[[南アフリカ]]などからケニアに到着した。しかしマサイ族の牧畜の権利保全をめぐる問題が持ち上がり、今後は大きな面積の土地利用の出願を受け付けないという決定がなされた。
 
この植民政策の遂行をめぐり、英領東アフリカの当時の弁務官[[チャールズ・エリオット (外交官)|チャールズ・エリオット卿]]と、英国外務大臣[[ヘンリー・チャールズ・キース・ペティ=フィッツモーリス (第5代ランズダウン侯)|ランズダウン侯]]の間で論争が起こった。ランズダウン侯は東アフリカシンジケートに与えた誓約を守ろうとして、彼らに対する500平方マイルの賃貸を認可すべきとした。しかしロンドンにいた保護領官僚との話し合いの結果、彼は南アフリカからの入植者に対し別に50平方マイルの賃貸を行おうというエリオットの結論を拒んだ。エリオット卿は、新たな賃貸を禁じながら東アフリカシンジケートへの有利な賃貸契約を守るランズダウン侯の結論を不当な土地独占と述べて辞任している。現在のケニア[[中央州 (ケニア)|中央州]]一帯は「白人高地」として白人経営による[[コーヒー]]や[[茶]]の農園が広がり1930年代には白人の数は3万人に達した。後に、高原の土地を占有する白人農園は、元来の土地所有権を主張する[[キクユ族]]による[[マウマウ団の乱]]などさまざまな[[民族主義]]運動の標的と化す。
 
一方[[1896年]]以来、[[インド]]から金融、商業、手工業などを行う移民がケニアに到来し都市部の経済を動かした。さらにウガンダ鉄道建設のために大勢のインド人がケニアとウガンダに渡ってきた。人種別の隔離がなされ、都市での居住地制限や高原地帯へのインド人入植制限が行われたが、インド人は数で白人を圧倒した。1921年段階でのケニアの推定人口は2,376,000人で、うち9651人はヨーロッパ人、22,822人はインド人、10,102人はアラブ人だった。最大都市はモンバサで人口は32,000人だった。