「阿久利川事件」の版間の差分

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[[陸奥国|奥州]]における[[安倍頼良]]の勢力に対し朝廷は、[[1051年]]([[永承]]6年)国司[[藤原登任]]に討伐を命じたが[[鬼切部の戦い|鬼切部(鬼首)の戦い]]で逆に敗北した。
 
藤原登任の敗北により、公家ではなく武士である源頼義を陸奥守として東下させた(1051(1051年には陸奥守のみの任官であり鎮守府将軍任官は[[1053年]](天喜元年)とする見解が近年は増加している)
 
頼義着任間もない[[1052年]](永承7年)、上東門院[[藤原彰子]]の病気平癒祈願の[[大赦]]布告が発せられ、罪を免ぜられたこともあり、頼良は源氏の棟梁である頼義に服従し、名を頼時と改め忠勤を約した。
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== 藤原経清の離反 ==
この時点で国府の将として衣川の南にいた[[平永衡]]と[[藤原経清]]は頼義に従っていたが、二人とも頼時の婿であり微妙な立場であった。この時に永衡は陣中できらびやかな銀の兜を着けているのでこれは、敵軍への通牒でないかと永衡を誣告するものがあり、これを信じた頼義によって永衡は殺された。身の危険を感じた経清は、国府襲撃の偽の情報を流して頼義軍が多賀城へ急行している間に安倍頼時の軍に帰従した。この離反のため一時国府の政令がおぼつかなくなるほどで、[[前九年の役]]平定に時間を要することとなった。
 
== 陰謀説 ==
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==所在地==
早稲田大学名誉教授であった[[吉田東吾|吉田東伍]]の[[大日本地名辞書]]によると、胆沢鎮守府と宮城(原文ママ)国府の間にある川の名とし、後世に伝えずとある。が、吉田は仮定としながらも名前の相似点から、磐井川付近の岩手県[[一関市]]赤荻(阿古幾)とした。岩手大学教授[[高橋崇]]もその著作の中で「阿久利川(あくりがわ)未詳宮城県北部か」としている。長年地域同定が出来なかったが、近年'''あくり'''でなく、利根川の利の様に'''あくと'''と呼ぶのではとの東北大名誉教授[[高橋富雄]]の研究成果で、現在の宮城県[[栗原市]]築館と志波姫の境の一迫川畔の「阿久戸」という地域が比定地として有力である。付近には、[[伊治呰麻呂]](これはりのあざまろ)が)の居城・伊治城があり史跡として発掘調査が進んでいる。
 
== 関連文献 ==